花見

今週のお題「桜」

 

 

春です。

みなさまいかがお過ごしでしょうか?

僕は60分の教習の間にS字カーブで5回くらい脱輪したりしてました。

 

さてまあ、春と言えば桜です。

ちなみにですが、今年から桜のことを「エロゲ花」と呼ぶことにしました。

だってあの業界年がら年中桜満開にしてますからね。そりゃあもうあんなの国を代表する花なんかじゃありません。エロゲ・フラワーですよ。

 

はやく桜を「エロゲ花」と呼ぶ風潮が日本全土に広まるといいですね。僕のささやかな願いです。

それはそうとしてはやくサクラノ刻のディザーサイト更新してほしいですな。

あと最高のエロゲはCROSS † CHANNELな。これはマジ。

 

 

桜と言えばもう一つ。

僕が好んで引用する故事成語故事成語ではないなあ)なんですけど「酒はほろ酔い花は五部咲き」というのがあります。元ネタは菜根譚です。

 

要は「羽目を外しすぎるな」って警句なんすけど、まあ満開の桜の下、ブルーシートを広げてどんちゃん騒ぎをする連中を尻目に見て「花は半開を看、酒は微酔に飲む…(今ググった)」ってカッコつける斜に構えムーヴができる大変優れもの。

しかも僕はこのムーヴを中学生の時から好んでいるらしいですね。死のうかな。

 

まあてなわけで僕はこの警句を大した意味を理解せずに乱発してるわけです。

なかなか酷いですね。

 

 

まあこういうクソムーヴを飽きもせず毎年続けるのには理由があります。

毎年桜がクソほど咲くのが悪いんです。

この季節になると、冬の間ずっと土の下や硬い木の芽の中に隠れていた、淡い色をした花々が、これでもか、これでもかと言わんばかりに毎年毎年飽きもせず咲くわけですよ。

でもって桜が花開けば毎年毎年飽きもせずに人間どもが「満開~(笑)お花見~(笑)酒~(笑)インスタ~(笑)」っつってブルーシート広げてどんちゃんやるわけです。

で、その喧噪から少し離れた場所で腕を組んだ俺が毎年毎年懲りもせずこう言うわけです。

 

花は半開を看、酒は微酔に飲む…

 

 

 

 

バカじゃねえの?????

 

 

 

 

桜から俺までみんなバカ。成長なし。やめちまえ。クソが。ゲリ。カス。ウンゲ。

漢籍引用してどや顔するヤツマジで14歳で夭折したほうがいい。

死ぬか。6年くらい長生きしすぎた。

 

 

 

 

 

 

まあ以上までが脱線です。

本線の話をしましょう。

 

冒頭でもお話しした通り、僕は車校に通っています。

でもってS字カーブで引っかかって2回補講を食らいましたがそんなことはどうでもいい。

僕は普段おうちでごろごろして生きる産業廃棄物の別名をほしいままにしています。

そんなゴミが車校で助手席にブレーキがついてるタイプの普通自動車に乗り、S字カーブで脱輪するためには、車校へと歩いて通学せねばなりません。

するとあら不思議。文脈に通学路の概念が浮上してきました。

 

おうちから車校へ通うためには、大学のキャンパス内にある山(といっても、そこまで通行に負担のあるものではありませんが、それでもなお風景は山道なのです)を一つ横断する必要があります。

 

その道沿いの桜が、少しずつではありますが、乳液の海にほんの少しの食紅を落として遊んだような色合いで、ほころび始めているのを発見しました。

きっと二週間後にはアーチのような桜並木になることでしょう。

そうして満開の桜は雨かなんかで花弁を全部落として、道路を薄ピンクに敷き詰めて、それから通行人や車に踏まれ、泥が付き、きちゃなくなるんだろうなあと思いました。

 

そんなことを考えながら歩みを進めます。

少しばかり進むと、車の通れないような脇道に逸れなければなりません。

あ、酒回ってきて書くのめんどくさくなってきた。

そこは少し整備された遊歩道。

履き古した靴を通して足裏が触れるのは、慣れたアスファルトではなく、黒ぼけた土。

道幅も狭くなって、まわりの草木との距離も近くなってきます。

(夏ぐらいになると、僕はこの自然とのあまりの近さに恐れてしまい、うっかり土の中に作られたスズメバチの巣を踏んで死んでしまうんじゃないかと思いながら、ひんやりとした黒土を踏みながら、びくびくとこの道を歩くのですが、それはまったく関係のない話です。あとこの道には尊師ールがあります)

 

僕は普段ならこの道を無感動に歩くのですが、今日ばかりは違いました。

 

目の高さにほんの数輪、桜の花がありました。

白にピンクを差した、桜の花がありました。

 

僕の記憶が正しければ、このへんに桜の木なんてありません。

でも、実際問題として目の前に花はあります。

 

あたりを見回して気づきました。

これは、普段ただの腐りかけの丸太だと思って気にも留めていなかった、桜の倒木からか細く、でも確かに天へ向かって枝が伸び、その枝の先から可憐な花が百輪ほど咲いていたんだと。

 

湿り気を帯び、地面と平行になった、黒く変色した幹。

それを覆い隠すように百輪ほどの白っぽい桜花が、新雪のごとく積もっていたのです。

僕はそれにほんの少しばかり敬意と、嫉妬心を抱きました。

 

僕は「花が咲く」ということを、その植物全体の中に蔵されたエネルギーが結晶化して世界のこちら側に現れ出ることだと考えています。

桜の木全体を人間だと、桜の花一輪一輪を、その人間が生み出したことば・絵・音楽などの芸術作品だと考えてみてください。

芸術は、人間の中に形を持たずにエネルギーのままで蔵されています。

だから、芸術家は、形にならないそれを、全生命エネルギー・全生活をかけて「芸術」という形あるものに作り上げ、世界に放出します。

 

桜の花が、桜の全てをかけて咲くように。

 

しかし、桜は咲こうと願えば咲けますが、人間が芸術という名の花を世界に析出させるためには、ある種の天分の助けを必要とします。

そのため、天分のない人間は美しく花を咲かせられないのです。

 

僕は、花の咲かない木です。だからこそ、この倒木に心惹かれ、そして嫉妬しました。

そしてこう考えて、車校までの道を歩み続けました。

 

 

この桜が咲けたのは、この腐りかけの幹の中に生命エネルギーが蔵されていたからなのでしょうか?

それとも、この倒木が桜の倒木だったから、桜花が咲いたのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことを考えながらキャンパスを抜けた先の住宅街を歩いていました。

僕の前を小さな男の子が駆けているのに気づきました。

僕はつい気になって男の子の視線の先を追いました。

黄色のパンジーが、鉢植えの中に並んでいました。

 

男の子は鉢植えに向かって駆けていきます。

そうして、やわらかな手のひらを広げ、パーの手で黄色く、これまた柔らかく大きな花弁を通り過ぎざまに優しくなでると、そのままかけ去ってゆきました。

 

僕はその男の子の一挙一動に目を奪われました。

そうして、男の子の行為の意味についてずっとあれこれ考えましたが、ここに書くのは無粋なのでやめます。

ただ、これだけは言わせてください。

あれこそが紛れもなく、最も正しい人間にとっての花見であったということ、そして、もう僕には「あれ」をする資格はなく、あの男の子にしか「花見」は許されないということを。

 

そして僕は強くそうだと信じています。