友人がウシガエルを殺して調理した話

 年号が「平成」となってより30年、この激動の時代はあと一年足らずで幕を閉じようとしている。

 「古き良き」と称えられた昭和を知らず、私たちが生き、私たちの価値観や精神風土を育てたこの時代があと一年足らずで終わろうとしている。

 

 だが、このことを特別なものとして捉える人間はいない。

 「時代が終わること」が、もしかしたら生活に何らかの変調をもたらすのではないかと感じているものは少ない。

 

 「時代が終わること」に、「時代に伴う価値観が変わること」に、恐怖する人間が今の日本にいるのだろうか──?

 

 

 

 今は平成30年。一つの時代が終わりを告げるメモリアル・イヤー。

 だから、日常生活に価値観の崩壊を予兆させる異常が存在してもいいのかもしれない──。

 

 

 

 

 

  これは、一匹のウシガエルと、愚かな人間たちと、価値観という名のピアノに、調律が狂ったことを予感させる、今日あった実話である。

 

 

 

 

 

 

 5月17日のことである。

 

一狩りいこうぜ!ってことでウシガエルを捕りましょう
いつかの土曜の夜か日曜昼を予定しています
阪大近くの池にわんさかいるのでそこでやります
捕ったウシガエルはそこでシメておみあしキャッスル(註:僕の家)で調理します
さわったあとはちゃんと手を洗いましょう
準備:動きやすい服装、シメるための大きな石(なければ木にぶつけてシメる)、タモ網、釣竿(持ってる人いない?)、
 
 
 
 
 
 
 
 

 これは、何事もない平日の木曜日に立てられたツイプラです。憂鬱なことに、私はこれに多くの「ツッコミ」を入れねばなりません。

 

 まず、ウシガエルを「狩る」という表記。

 私たちは平成30年に生きています。食料を手に入れようと思えばスーパーで加工された肉を買えば良いですし、最悪コンビニでおにぎりでも買えば良いでしょう。

 

 「狩る」って何ですか。

 

 

 次に公共の場である大学の池でウシガエルを狩るということ。

 お前は学びの園を何だと思っているんだ。

 

 確かに、公共施設である大学内で飲み会をしているウェイサークルはいますが、そのキャンパス内で虫取りするノリでカエルを狩ろうなど、お前…お前…。

 

 規則上大学内の池でカエルを取って食うのはアウトではありませんが、こんなの一年ほど前に部員へのアルコールハラスメントで大炎上した某テニスサークルでもドン引くと思います。

 

 

 要は発想が常識の地平上に存在しません。

 

 

 最後に、「捕ったウシガエルはそこでシメておみあしキャッスル(註:僕の家)で調理します」という一文。

 

 「おみあしキャッスル」とは、僕の家のことです。

 

 つまり、僕が知らないうちに、僕の家でウシガエルを調理する話が成立していたのです。

 

 

 あまりに理不尽。これでキレない人間がいたら会ってみたい。

 抗議の結果、ウシガエルの調理は彼の家で行われることになりました。良かったね(よくない)

 

 

 

 以下、主犯二名

 (これが動機らしいです)

 

 

 (こいつは知らん)

 

 この二名がノリノリの実行犯でした。

 

 

 

 

 

 さて、ここからが今回の事件の難しいところです。

 

 今回のカエル狩猟事件は、僕が完全に被害者であるわけではなく、告白すると僕が犯した非の側面が大きい、という点が発生します。

 

 

 実際問題として僕もカエル狩りについては、プランに口を挟みまくるなど金曜日時点では超ノリノリでしたし、ノウハウの収集に関しては僕によるものが大きいでしょう。

 

 しかしながら、カエルの狩猟当日に怖気付き、実食パートに参加しなかったのも僕なのです。

 

 要するに僕は口を出すだけ出して結局何もしていないのです。

  カスだなぁ。

 

 

 

 

 

 以上、今回の件は僕にも大きく非があります。

 というか、非があったのは僕だけかもしれません。

 

 だって、カエルを取って食うことに、法的には何の問題も発生せず、子供が自分たちの作り出した冒険譚に乗り出さないことは、それだけで罪なのだから。

 

 

 

 

 

 

 5月18日の話は端的にしましょう。

 ・僕は英語の授業中の時間をフルに使ってウシガエルとその実食に際するノウハウを調べ上げた。

 ・僕と山本で網の買い出しに出かけ、網を買わずにクーラーボックスと柔軟剤だけ買って帰った(純粋に網の買い忘れ、自宅の柔軟剤が切れていたので)。

 

この時点では、まさか決行が19日になるとは思っていませんでした。

 

 

 5・19

 

 

 

  この時点ではウシガエルを取って食うんだろうなあと、かるーく考えていました。

 

 しかし、決行直前、僕に心境の変化が訪れていました。

 

 

 

 ・・・・・・カエル食いたくねえ。

 

 

 

  冷静になった僕は、カエルを食いたくありませんでした。

 

 だってそうでしょう。21世紀の日本に生きていて、なんで食用ガエルをそこら辺の池から捕まえてきて、その場で絞めて調理しなきゃいけないんですか。

 

 三時間前までエロゲをしていた人間が、今になって突然「さあカエルを食べよう」などと!

 ・・・・・・言えるか?

 

 

 

 

 とはいえ話はトントン拍子に進み、気が付けば僕はガバガバ狩猟ムーブの犠牲者となる二人のオタクを召還して(オタクは単独行動を好まないので不利益がありそうなイベント時には他人を巻き込みがち)、カエル狩猟さんチームが待つ池に向かいました。

 

 道中、キャンパス内で宴会をしているウェイウェイサークルを見ました。ひょっとしたらあれが幸福な人間の姿だったのかもしれません。

 

  カエル狩りをする池に着きました。

 岸のある斜面に、二日前に買ったクーラーボックスが転がっていました。

 彼ら二人は、ウシガエルを求めてクーラーボックスをほったらかしにしたまま歩き回っているのでしょう。

 ・・・クーラーボックスくらい携行してください。

 

 

 僕はこの時点で、まさかカエルを釣り上げるような事態はあるまい、と考えていました。

 というかそんな現場に遭遇するための心構えは皆無だったと思います。

 

 

 僕は覚えています。帰るべきじゃないかという話をしていたときに、

 

 ぼく「今の池めっちゃ静かだしカエルとかいなさそうだし帰ってもい」

 カエル「グモオー(ウシガエル特有の鳴き声が響き渡る)」

 

・・・逃げ道が断たれたのを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうこうするうちに、先ほどのウシガエルの鳴き声を聞きつけてか、狩猟オタク二名がこちらへやってきました。

 彼らは、鳴き声がするほうに向かい、釣り糸を垂らします。

 

 

 このとき、僕は心のどこかで「カエルなんか釣れるわけないだろう」と考えていました。

 しかし、

 

 

 

 

 

 遠目に見ていた釣り竿が大きくしなります。ざわつくオタクたち。

 そうこうするうちに釣り竿が夜空に向かって掲げられ、その糸の先には緑色のフォルム、20センチはゆうにあるだろう食用ガエルこと、ウシガエルの姿がありました。

 

 

特定外来生物ウシガエルは、体長は20センチ程の日本最大のカエルである。

 

ウシガエルの特徴はその後肢。全身の筋肉のほとんどはそこにあり、そのためにかれらは大きなジャンプ力を持つ。

 

 冗談のように釣り糸にぶら下がったウシガエルの姿は特徴的でした。

 その体の半分ほどもある、太くて長い後肢をだらんと伸ばして・・・・・・

 

 そんなウシガエルの姿を見た僕が最初に発した言葉は──

 

 

「殺せ!法に触れるぞ!!」

 

 でした。

 

 

 本当に恥ずべきことです。

 この時の僕の脳裏を占めていた文章は、ウシガエルの身体的特徴や、調理方法なんかではなく、

 

 

特定外来生物に指定されたものについては以下の項目について規制されます。

飼育、栽培、保管及び運搬することが原則禁止されます。

──特定外来生物であるウシガエルを捕まえたからには、生きたまま運搬することは法的に許されない。

 

野外へ放つ、植える及びまくことが原則禁止されます。

(以上、環境省のページ:

https://www.env.go.jp/nature/intro/1law/regulation.htmlより抜粋) 

──逃がすことが許されない。(もっとも、キャッチアンドリリースは許されるのですが、僕は気が動転していてすっかり忘れており、釣り上げたオタクは食べる気満々だったのでそんなことをしません)

 

 

 法を遵守するためにはウシガエルを殺さねばなりません。

 

彼らに言っておく──

 

 この時、僕の発想は、常識と法律に制限されていました。

 

「信号(註:法のことか?)は人間のためにあるのであって、

 

 本当に人間の発想は何物かの支配下にはなく、完全に自由でしょうか?

 実際には、法や教育や社会が作り上げてきた常識の枠内でのみ人間は自由なのではないでしょうか?

 

人間が信号のためにあるのではない」!

      ──以上、とある法学者のツイートより抜粋

 

 人間は法に優位たり得ず、法が絶対的に人間に優位なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 僕の発想は、昨日までの「ルールは守るべき」常識と(そのためにはカエルを殺さねばならない)、学校教育に叩き込まれた命を粗末にしてはいけないという倫理観(そのためにカエルを殺せない)、という概念の延長線上にしかありえませんでした。

 

 

 

 僕はこのとき、カエルの後肢を掴み、脳天を地面に叩きつけるか、何も見なかったことにして逃がすべきでした。

 

 

  僕はそれをしませんでした。

 

 

 気が付いたらカエルは脳天を階段に叩きつけられて、地面に投げつけられた濡れ雑巾のような音を立てていました。

 

 

 

 僕がしていたことは、カエルを殺すことも逃がすこともせず、その場に突っ立っていることだけでした。

 

 

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 その後、ウシガエルを調理するために自宅に戻っていくオタクたちの背中を追いかけることもせず、僕はただただその姿を見送っていました。

 

 

 特定外来種の駆除と夜食の調理ができたので、彼ら的に本来の目的は果たせたと言えるでしょう。

 

 

 しかしながら、僕はただただウシガエルの鳴き声が響く池を眺めながら突っ立っていることしかできませんでした。

 

 あの、地面にウシガエルを叩きつけるアモラル。

 村々でブタを屠殺していた時代にあったあのモラルが果たして良いことなのか悪いことなのかわからずに立ち尽くしていました。

 

 僕はウシガエルを殺して食うべきなのでしょうか。

 

 到底平成30年の問いではありません。しかし、僕はこの問いを解決しない限りいつまで経っても平成時代の地平上でしか生きていけない気がするのです。

 

 

 僕はウシガエルを食うべきなのでしょうか?

 

 

 僕にもウシガエルを殺して調理することが可能になる日は来るのでしょうか・・・?