成人式だよ~

はいというわけで『人生の節目』を言い訳にして気に入らない過去記事を11本ほど消去しました大村(現時点で使っている偽名です)です。

 

はい。成人式ですね。

 

 

僕出席しないんすよ。

 

 

なんでかっていうと

 

①住民票を移したから招待状が届かない

 

愛媛県松山市役所にメール送って招待状もらうのがめんどくさかったので放置しちゃたあ照

 

③大学入った瞬間にLINE転生をしたところ人間関係もリセットされちゃって同窓会と連絡つきません!w

 

④高校の同窓会から送られてくる封筒全部読まずに破り捨ててたら一年くらいたって何も届かなくなった

 

の①~④のうちのどれか一つが原因だと思いますね。

 

 

まあそんなのはどうでもよくて、みんな帰省してていいなあって感じです。

 

 

 

それはそうとして、もし僕が連絡先把握してない高校同期の方がこのブログを見ることがあったら文学少女シリーズBlu-rayか七尾百合子さんのフィギュアを実家に郵送しといてください。僕だけが得をします。芸術的なまでに僕以外の人間が得をしません。

 

一応言っておくと僕は「受験期の11月くらいに社会主義にハマってた将来の夢がインサイダー取引の艦これの話ばっかしてた生物部の元部長」です。

 

元気でやっているのでよろしく。

 

 

文学少女 SP Blu-ray BOX
 

 

生まれて初めて同世代から贈られたゲームのレビュー

 

 

  経緯です。

 ちなみにこれ。 

store.steampowered.com

 今ならなんと60円。絶対2000円くらいのゲームを買った余りの金で買ったんだろうなあって感じです。

 

 

  ともかくプレイ。一種の業者魂ですよね。

 

 

 ……。

 

 

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 ……なぜ、私はこのような心境に至ったのか。

 順を追って説明しましょう。

 

 

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 起動した瞬間、これが出ました。

 英文の説明が出た瞬間、「うるせえ俺は英語できないんじゃい!」ってキレようと思っていたのに、「ルールは察しろ」と言わんばかりのこの画面。

 うーん、肩透かし。

 

 

 ルールは察したので配列します。

 

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 おん。(黒髪セーラーにその乳はデカすぎる。生まれ直せ)

 

 絵が完成しました。おめでとう。

 ちなみにこれ五種類の差分があるっぽくて、順を追って全裸になります。

 あとナニとは言いませんが無毛無修正でした。

 画面の右上にあるメニューらしき何かをクリックしてギャラリーみたいな感じのsomethingなコーナでじっくり閲覧できたと思います。

 「俺は本当に18禁ゲームをしているのか?」と疑うほど平穏な感情のままえっちな絵を見つめましょう。

 

 でもってクリックすると次の画面に行きます。

 

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 うーん、一生やってろ。

 

 

 まとめです。

 野球拳や脱衣麻雀などの、「なにかのゲームに勝ったご褒美としてエロを提供するタイプのゲーム」に通づるものを感じました。

 1980年代の家庭用コンピュータ黎明期に、『じゃんけんのプログラミングを組み、同じ姿勢の女の子の絵を着衣・下着・全裸姿で三枚用意して、製作期間一週間で野球拳ゲームとして発売した』というエピソードを思い出しました。てかまんまこれだと思います。

 

 あと、この話は以下のリンクの本に大体全部書いてます。

 おもしろいのでぜひ読んでね。

 

エロゲー文化研究概論 増補改訂版

エロゲー文化研究概論 増補改訂版

 

 

 おわり。

 ゲームを送ってくれたはるひくんに感謝を。

 

友人がウシガエルを殺して調理した話

 年号が「平成」となってより30年、この激動の時代はあと一年足らずで幕を閉じようとしている。

 「古き良き」と称えられた昭和を知らず、私たちが生き、私たちの価値観や精神風土を育てたこの時代があと一年足らずで終わろうとしている。

 

 だが、このことを特別なものとして捉える人間はいない。

 「時代が終わること」が、もしかしたら生活に何らかの変調をもたらすのではないかと感じているものは少ない。

 

 「時代が終わること」に、「時代に伴う価値観が変わること」に、恐怖する人間が今の日本にいるのだろうか──?

 

 

 

 今は平成30年。一つの時代が終わりを告げるメモリアル・イヤー。

 だから、日常生活に価値観の崩壊を予兆させる異常が存在してもいいのかもしれない──。

 

 

 

 

 

  これは、一匹のウシガエルと、愚かな人間たちと、価値観という名のピアノに、調律が狂ったことを予感させる、今日あった実話である。

 

 

 

 

 

 

 5月17日のことである。

 

一狩りいこうぜ!ってことでウシガエルを捕りましょう
いつかの土曜の夜か日曜昼を予定しています
阪大近くの池にわんさかいるのでそこでやります
捕ったウシガエルはそこでシメておみあしキャッスル(註:僕の家)で調理します
さわったあとはちゃんと手を洗いましょう
準備:動きやすい服装、シメるための大きな石(なければ木にぶつけてシメる)、タモ網、釣竿(持ってる人いない?)、
 
 
 
 
 
 
 
 

 これは、何事もない平日の木曜日に立てられたツイプラです。憂鬱なことに、私はこれに多くの「ツッコミ」を入れねばなりません。

 

 まず、ウシガエルを「狩る」という表記。

 私たちは平成30年に生きています。食料を手に入れようと思えばスーパーで加工された肉を買えば良いですし、最悪コンビニでおにぎりでも買えば良いでしょう。

 

 「狩る」って何ですか。

 

 

 次に公共の場である大学の池でウシガエルを狩るということ。

 お前は学びの園を何だと思っているんだ。

 

 確かに、公共施設である大学内で飲み会をしているウェイサークルはいますが、そのキャンパス内で虫取りするノリでカエルを狩ろうなど、お前…お前…。

 

 規則上大学内の池でカエルを取って食うのはアウトではありませんが、こんなの一年ほど前に部員へのアルコールハラスメントで大炎上した某テニスサークルでもドン引くと思います。

 

 

 要は発想が常識の地平上に存在しません。

 

 

 最後に、「捕ったウシガエルはそこでシメておみあしキャッスル(註:僕の家)で調理します」という一文。

 

 「おみあしキャッスル」とは、僕の家のことです。

 

 つまり、僕が知らないうちに、僕の家でウシガエルを調理する話が成立していたのです。

 

 

 あまりに理不尽。これでキレない人間がいたら会ってみたい。

 抗議の結果、ウシガエルの調理は彼の家で行われることになりました。良かったね(よくない)

 

 

 

 以下、主犯二名

 (これが動機らしいです)

 

 

 (こいつは知らん)

 

 この二名がノリノリの実行犯でした。

 

 

 

 

 

 さて、ここからが今回の事件の難しいところです。

 

 今回のカエル狩猟事件は、僕が完全に被害者であるわけではなく、告白すると僕が犯した非の側面が大きい、という点が発生します。

 

 

 実際問題として僕もカエル狩りについては、プランに口を挟みまくるなど金曜日時点では超ノリノリでしたし、ノウハウの収集に関しては僕によるものが大きいでしょう。

 

 しかしながら、カエルの狩猟当日に怖気付き、実食パートに参加しなかったのも僕なのです。

 

 要するに僕は口を出すだけ出して結局何もしていないのです。

  カスだなぁ。

 

 

 

 

 

 以上、今回の件は僕にも大きく非があります。

 というか、非があったのは僕だけかもしれません。

 

 だって、カエルを取って食うことに、法的には何の問題も発生せず、子供が自分たちの作り出した冒険譚に乗り出さないことは、それだけで罪なのだから。

 

 

 

 

 

 

 5月18日の話は端的にしましょう。

 ・僕は英語の授業中の時間をフルに使ってウシガエルとその実食に際するノウハウを調べ上げた。

 ・僕と山本で網の買い出しに出かけ、網を買わずにクーラーボックスと柔軟剤だけ買って帰った(純粋に網の買い忘れ、自宅の柔軟剤が切れていたので)。

 

この時点では、まさか決行が19日になるとは思っていませんでした。

 

 

 5・19

 

 

 

  この時点ではウシガエルを取って食うんだろうなあと、かるーく考えていました。

 

 しかし、決行直前、僕に心境の変化が訪れていました。

 

 

 

 ・・・・・・カエル食いたくねえ。

 

 

 

  冷静になった僕は、カエルを食いたくありませんでした。

 

 だってそうでしょう。21世紀の日本に生きていて、なんで食用ガエルをそこら辺の池から捕まえてきて、その場で絞めて調理しなきゃいけないんですか。

 

 三時間前までエロゲをしていた人間が、今になって突然「さあカエルを食べよう」などと!

 ・・・・・・言えるか?

 

 

 

 

 とはいえ話はトントン拍子に進み、気が付けば僕はガバガバ狩猟ムーブの犠牲者となる二人のオタクを召還して(オタクは単独行動を好まないので不利益がありそうなイベント時には他人を巻き込みがち)、カエル狩猟さんチームが待つ池に向かいました。

 

 道中、キャンパス内で宴会をしているウェイウェイサークルを見ました。ひょっとしたらあれが幸福な人間の姿だったのかもしれません。

 

  カエル狩りをする池に着きました。

 岸のある斜面に、二日前に買ったクーラーボックスが転がっていました。

 彼ら二人は、ウシガエルを求めてクーラーボックスをほったらかしにしたまま歩き回っているのでしょう。

 ・・・クーラーボックスくらい携行してください。

 

 

 僕はこの時点で、まさかカエルを釣り上げるような事態はあるまい、と考えていました。

 というかそんな現場に遭遇するための心構えは皆無だったと思います。

 

 

 僕は覚えています。帰るべきじゃないかという話をしていたときに、

 

 ぼく「今の池めっちゃ静かだしカエルとかいなさそうだし帰ってもい」

 カエル「グモオー(ウシガエル特有の鳴き声が響き渡る)」

 

・・・逃げ道が断たれたのを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうこうするうちに、先ほどのウシガエルの鳴き声を聞きつけてか、狩猟オタク二名がこちらへやってきました。

 彼らは、鳴き声がするほうに向かい、釣り糸を垂らします。

 

 

 このとき、僕は心のどこかで「カエルなんか釣れるわけないだろう」と考えていました。

 しかし、

 

 

 

 

 

 遠目に見ていた釣り竿が大きくしなります。ざわつくオタクたち。

 そうこうするうちに釣り竿が夜空に向かって掲げられ、その糸の先には緑色のフォルム、20センチはゆうにあるだろう食用ガエルこと、ウシガエルの姿がありました。

 

 

特定外来生物ウシガエルは、体長は20センチ程の日本最大のカエルである。

 

ウシガエルの特徴はその後肢。全身の筋肉のほとんどはそこにあり、そのためにかれらは大きなジャンプ力を持つ。

 

 冗談のように釣り糸にぶら下がったウシガエルの姿は特徴的でした。

 その体の半分ほどもある、太くて長い後肢をだらんと伸ばして・・・・・・

 

 そんなウシガエルの姿を見た僕が最初に発した言葉は──

 

 

「殺せ!法に触れるぞ!!」

 

 でした。

 

 

 本当に恥ずべきことです。

 この時の僕の脳裏を占めていた文章は、ウシガエルの身体的特徴や、調理方法なんかではなく、

 

 

特定外来生物に指定されたものについては以下の項目について規制されます。

飼育、栽培、保管及び運搬することが原則禁止されます。

──特定外来生物であるウシガエルを捕まえたからには、生きたまま運搬することは法的に許されない。

 

野外へ放つ、植える及びまくことが原則禁止されます。

(以上、環境省のページ:

https://www.env.go.jp/nature/intro/1law/regulation.htmlより抜粋) 

──逃がすことが許されない。(もっとも、キャッチアンドリリースは許されるのですが、僕は気が動転していてすっかり忘れており、釣り上げたオタクは食べる気満々だったのでそんなことをしません)

 

 

 法を遵守するためにはウシガエルを殺さねばなりません。

 

彼らに言っておく──

 

 この時、僕の発想は、常識と法律に制限されていました。

 

「信号(註:法のことか?)は人間のためにあるのであって、

 

 本当に人間の発想は何物かの支配下にはなく、完全に自由でしょうか?

 実際には、法や教育や社会が作り上げてきた常識の枠内でのみ人間は自由なのではないでしょうか?

 

人間が信号のためにあるのではない」!

      ──以上、とある法学者のツイートより抜粋

 

 人間は法に優位たり得ず、法が絶対的に人間に優位なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 僕の発想は、昨日までの「ルールは守るべき」常識と(そのためにはカエルを殺さねばならない)、学校教育に叩き込まれた命を粗末にしてはいけないという倫理観(そのためにカエルを殺せない)、という概念の延長線上にしかありえませんでした。

 

 

 

 僕はこのとき、カエルの後肢を掴み、脳天を地面に叩きつけるか、何も見なかったことにして逃がすべきでした。

 

 

  僕はそれをしませんでした。

 

 

 気が付いたらカエルは脳天を階段に叩きつけられて、地面に投げつけられた濡れ雑巾のような音を立てていました。

 

 

 

 僕がしていたことは、カエルを殺すことも逃がすこともせず、その場に突っ立っていることだけでした。

 

 

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 その後、ウシガエルを調理するために自宅に戻っていくオタクたちの背中を追いかけることもせず、僕はただただその姿を見送っていました。

 

 

 特定外来種の駆除と夜食の調理ができたので、彼ら的に本来の目的は果たせたと言えるでしょう。

 

 

 しかしながら、僕はただただウシガエルの鳴き声が響く池を眺めながら突っ立っていることしかできませんでした。

 

 あの、地面にウシガエルを叩きつけるアモラル。

 村々でブタを屠殺していた時代にあったあのモラルが果たして良いことなのか悪いことなのかわからずに立ち尽くしていました。

 

 僕はウシガエルを殺して食うべきなのでしょうか。

 

 到底平成30年の問いではありません。しかし、僕はこの問いを解決しない限りいつまで経っても平成時代の地平上でしか生きていけない気がするのです。

 

 

 僕はウシガエルを食うべきなのでしょうか?

 

 

 僕にもウシガエルを殺して調理することが可能になる日は来るのでしょうか・・・?

 

 

 

 

 

 

ひなビタライブレポ 真面目に書くよ編

 2017年3月31日、永久に忘れることのないであろう体験をしました。

 

 オタクになってからずっと追い続けてきたバンド、「日向美ビタースイーツ♪」の東京での初ライブです。

 

 資料映像(TOKYO MXさんがYouTubeにアップしたもの)

 ・こんなの。最高だった。

 

 「高校二年で罹患した中二病」という最悪のカルマを背負って生きていた三年前、「カタルシスの月」に聴き惚れて以来ずっと追いかけてきた、「日向美ビタースイーツ♪」のライブに立ち会うことができたのです。

 

 今回はその感想をここに記そうと思います。

 

 

・ 3/31、東京にて

 

 ・何してんだコイツ。ちなみに「鎌田でネット難民」ではなく「ネカフェ難民」でした。

 

 いろいろなツッコミがあると思いますが、僕はひなビタ♪に真剣です。はい。

 あと、興味本位で行っていい新興宗教の総本山は天理教までと気づきました。

 

 

 さて、僕のアホな体験はいずれ書くかもしれないとして、とりあえずライブに限定したことを書こうと思います。

 

 

 ・ライブ参加までの過程

 ある秋の日、「それ」は動き始めました。「ひなビタ♪」のライブが開催される、というニュースが流れてきたのです。

ja-jp.facebook.com

 

 

 最高の瞬間へのカウントダウンは、唐突に始まったのです。

 

 「ライブってなんだろう・・・?何が起こってどうなるんだろう・・・?」

 

 そんな漠然とした思いと、見てみたいという気持ちのまま季節は過ぎ去っていきます。

 

 

 気がついたら冬でした。

 

 ライブのチケットに当選はしましたが、何をするべきかわかりません。

 

 倉野川の5人は、受験という人生の一大イベントに向けて努力していたころ、僕はぼんやりと不定形で未知の「ライブ」について思いを馳せていました。

 

 春が来ました。メンバーの進路が決まり、卒業式を迎え、そうして・・・

 

 3月30日を迎えたのです。

 

 正直な話単純に驚きました。

 はい。白状すると、ライブに向けた心構えなど一切できておらず、気が付いたら日常の延長線上に人生最大の大イベントが待ち構えていたのです。

 

 

 タイム・リミットに急かされるように列車に乗り込みました。目指すは東京。

 

 ある二留のオタクは言いました。

 「ひなビタを追って上京する。シチュエーションが最高じゃないか」と。

 

 そう、このライブは東京でやるから意味があるんです。イブが憧れてたのは大阪でもなくて、東京。ライバルのここなつの二人は、東京からやってきたのだから。

 

 3月31日の朝、数多のオタク、おじさんたちが5人を追いかけて、最強のコンテクストで塗り固められた地、東京に足を踏み入れました。

 

  ちなみに余談ですが、2回目の東京ライブでは「都会征服Girls」が流れると信じていますし、「りんりんせんせーのめつぼう波動砲東名阪蹂躙ツアー」が企画されることを信じています。

 ・日本はこうなれ。

 

 ・不穏

 さて、物販に並び、「魔」としか形容できない東京観光ののち、いよいよ31日夕の部が始まります。

 開始直前の会場では、モニターにTOMOSUKEおじさんの地上波フリー素材がデカデカと放映されており、ほんわかな気持ちになっていました。しかし、やおら不穏なPVが流れ始めます。

  

 一見、倉野川によく似た古い商店街の街並み。凛花によく似た曲調のBGM、製作陣はTOMOSUKEおじさんとCUTEG様。ひなビタ♪の新しいPVかと思いきや、そこに現れたタイトルは日向美ビタースイーツ♪のものではなく・・・

 

「バンめし」

 

とありました。

 

 

・「バンめし」予想

 次々と映し出される鄙びた田舎町の光景。5人の美少女。

 でも、決定的にひなビタとは違う。

 なんですかこれは。これはひなビタと同系列のコンテンツじゃないですか。KONAMIはひなビタを裏切るんですか。ひなビタは終わるんですか?

 

 そう思いはしましたが、ステージ上でTOMOSUKEおじさんがひなビタのこれからのストーリーを考えていく旨を明言、何よりもひなビタと関連付けたコンテンツにしたいと語っていたので、やはり「ひなビタ♪」とは似て非なるコンテンツが誕生するのだと思います。

 

 まず、そのテーマ。これはPVの中ですぐ言及されています。

 「伝統に縛られたこの町から逃げ出したい。それもできるだけ華麗に」・・・だったかな。(要旨)(うろ覚え)

 

 これは最初に聞いたとき、「こいつらわるいこと言うなあ」と思ってしまいました。

 だって、田舎に住む5人の女の子が「エスケープゴート」を語るのです。

 ひなビタ商店街を盛り上げるために「町おこし」に取り組む5人組とは大違いです。

 

 ここに、「ちょい悪」と「いい子たち」、それから「郷里からのエスケープ」と「郷里のための町おこし」というテーマの対立構造が現れてきます。

 

 僕は当初、成熟した「ひなビタ♪」が始まったばかりの若い「バンめし」の5人の範となる展開を予想していましたが、このテーマの対立を見る限りでは、むしろそうとは思えません。

 

 「対立する定義」と聞くと「弁証論」と言いたくなるのが人の世の常ですが、「弁証論的なストーリー展開」と一口に言っても、具体的には「どう」展開するか、「どう」2つの物語がかみ合うのかがまだまだ不明であります。

 

 また、「バンめし」の彼女らの取る「エスケープのための手段」も不透明です。おそらくは「音楽」でしょうが、どのような系統の音楽で来るのか、これも続報を待ちたいところです。

 

 ちなみにですが僕が勝手に対立構造だと思っているものとして、日向美ビター「スイーツ」♪とバン「めし」という「おやつ」と「ご飯」の対立構造がありますが、多分これは「バンめし」のリーダーが山盛りご飯をがつがつ食べちゃう感じの女の子だと暗喩しているのでは・・・と思われます。

 

 バカなこと言ってないでライブの所感を書きます。

 

 ・ライブでの所感

  不穏なPVが終わり、ついにその時は来ました。

 舞台袖の、まり花たちの声がします。

 そう、カウントダウンは終わりの時を迎え、魔法の時間が始まったのです。

 

 春深く夢の輪郭を ぼかして行き過ぎて舞い戻る ── 「凛として咲く花の如く」より歌詞抜粋

  

 始まりの歌が、全てのきっかけの歌が流れだしました。そして、まり花・一舞・咲子・めう・凛の5人の姿が現れます。

 僕の席は真ん中ド真ん前のブロック。訳も分からずブレードを振ります。

 

 なんだこれは。なんでキャラクターが演奏して歌をうたっているんだ・・・?

 

 気がつくと演奏は終わり、2曲目、「恋とキングコング」が流れ始めます。

 僕はこのとき起こった光景を一生忘れることはないでしょう。

 もう100回は聴いたであろう前奏を「演奏している」間、霜月凛が、山形まり花を見つめていたのです。

 

工場跡地にサーカス小屋が 建った ── 「恋とキングコング」より歌詞抜粋

 

 歌詞が唇を離れ、東京ドームシティホールに響き渡ります。

 それを確認した霜月凛は、何事もなかったかのように、視線を戻し、自分の演奏に没頭したのです。

 

 この一連の所作を見た僕は確信しました。

 

 

 ひなビタ♪は現実だ

 

 

 ということを。

 

 

 オレンジのブレードライトの群れが揺れ、カーニバルの到来を予感させます。

 続く「イブの時代っ!」では、パワフルなメロディーに合わせて黄色のライトが大波になって・・・。

 「めうめうぺったんたん‼」では、何度もCDで聴いたコールの大合唱。

 「とってもとってもありがとう」でしんみりして、ディスクールで生まれてきてよかったなあと思いました。語彙力。

 

 

 そして、衣装チェンジのお色直しタイム。「司会屋」が伝説に残る邪悪な行動に出ます。

 

ja-jp.facebook.com

 

  ダメみたいですね。

 

 

 さて、そのあとはデュエット曲。MV風の映像が凄かったです。

 ちくわがドゥインドゥインしているのに興奮して、文字通り艶やかな和装の乙女繚乱を生で見て、エランプシスでつややかな黒髪を掻き上げるりんりんせんせーに心を射抜かれて、そして、あの名曲「走れメロンパン」──。

 

 全てが、本当に最高だった。

 

 

 そして、ゲストトークのあとの最後の一曲──。

 

 

「レトロ―ド」からの「チョコスマ」

  最後の一曲は「ぽかぽかレトロ―ド」。

 これは、始めにこのバンドを作った、みんなの心の支えだったまり花の曲で、そして、みんなのためにもう一度作られた曲。

 

 ────空の色はころころ変わるけど

 

  個性豊かなメンバーがいて、時にはケンカすることもあった。でも、

 

いつまでも このまちは変わらないよぽかぽか

見渡せばみんな笑顔でおしゃべりしてる

 

  戻ってくる場所があった。絶対に、絶対にまり花はみんなのことを信じていてくれた。

 自分の泣きたいときも我慢して。

 だから。ひなビタのメンバーも、ファンのみんなも。

 

だからこのまちがそう大好き──以上「ぽかぽかレトロ―ド」 より歌詞抜粋

 

 リーダーで、主人公の山形まり花が好きなんだ。そう思えてならなかった。

 

 

 

 

 そうして、涙ぐんだまり花と、メンバーのみんながお互いに素直な気持ちを伝えて、霜月凛が4人に「好き」と伝えて、ライブは終わる。

 

 こうして、静かに幕が引かれ、ライブは終わった・・・。

 

 

 終わらなかった。

 

 

 「アンコール!アンコール!」

 

 大合唱が始まった。僕も叫んだ。

 

 でも、ステージに明かりは灯らなかった。

 

 このまま何も起こらなかったらどうしよう。そう思った僕は、「アンコール」と叫ぶのをやめた。

 

 でも、観客たちは叫び続けた。

 

 この、僕だけが叫ばなかった時間を、僕は恥じる。

 なぜなら、このとき「ひなビタは現実」という事実を忘れていたから。

 

 まり花たちが、アンコールを背にして去るようなことをするはずがないのだから・・・。

 

 

 

 

 ステージに明かりが灯る。

 そうして、正真正銘の最後の一曲。みんなで作ったみんなのための一曲、「チョコレートスマイル」が流れ始めた──。

 

 

 

・ひなビタは現実

 「チョコレートスマイル」が流れている間中、僕は必死にブレードを振り続けた。

 胸がいっぱいだった。

 それは、あとで多くの観客が語ったように感動したからではない。

 なぜだかわからないけどただただ「嬉しかった」からだ。

 

 

 そうして本当にライブが終わって、日向美ビタースイーツ♪のメンバーが去った後、会場に残った全員でこう叫んだのを覚えている。

 

「最高!!」と。

 

 

 

 そのとき、祝福のテープが音を立てて、空から降ってきた──。

エモさについての考察的何か ~本編~

 

mcknativefaith.hatenablog.com

 

 

 かつて僕はこのようなものを書きました。

「エモさ」というこの聞きなれない概念を知りたかったのです。

 

 

 

結果は散々でした。それが上記の駄文。

「エモ」というのはその語源から見る通り、「Emotion」、感情そのものなのです。

 

 

感情とはなんでしょう?我々は感情を言い表すことができるでしょうか?

一見簡単に思えるかもしれません。だってみんないつも持ってますから。

 

しかし、よくよく考えてください。「みんな」が「いつも」持っているということは、地上に生きる人間70億人が一日86400秒常に「それ」を持っているということです。

感情というものは、地球上の一日に限定しても、70億×86400通りの無限に言語化可能な「それ」として存在しうるのです。

 

巨大すぎます。


いったん「エモさ」という概念を見るといいでしょう。

そこには何もかもがあります。

 

感動すること、涙を流すことは「エモい」ことです。

そこには、笑いがあります。そこには悲しみがあります。そこには友情があり、そこには愛があり、プロセスがあり、友情があります。

生や死。快・不快の次元で全てがあります。

 

「エモさ」という巨大概念に解釈の刃は刺さりません。

「エモさ」という巨大概念は、ありとあらゆる言語による定義づけを撥ね退けます。

 

書けませんでした。

 

以来、「エモ」は最も自分にとってなじみ深く、最も自分にとってふわふわした巨大な何かであり、解釈すべき解釈不能なものであり、最も愛すべきもので最も恐怖すべきものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日、こんなものを買いました。

 

www.konamistyle.jp

 

聴きました。

再生一秒後から、世界が弾けます。

目を瞑ります。そこには、山形まり花がいます。

流れてくる音楽に身体を委ねます。そうして、ぼくは心の底からこう思いました。

 

 

「エモい」と。

 

 

「エモい」という「エモ」の巨大概念を最も端的に言い表す感嘆詞。

感情の言語化を放棄したんじゃない。諦めたんじゃない。

「エモい」からこそ「エモい」んだ。

 

もう、「エモ」は言い表せない。

そう思っていました。

 

 

 

山形まり花の向こう側を見ました。

そこに巨大な太陽が見えました。それは私を圧します。

感覚はこう訴えます。これがエモだと。

 

 

なので、私は今から、今だけならば、「エモ」を言及可能です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

概念に切り込みを入れるとき、最も必要とされるものは何でしょうか?

刃です。

この刃にあたるものが、この場合は即ち「仮説」であります。

切り込みを入れる角度の問題として「視座」の問題がありますが、これは今回は捨ておきましょう。

 

 

これから話を進める大前提としての「仮説」を立てます。

僕は、「『エモさ』という概念は極限の感動である」と仮定しました。

 

そしてその刃によって切り取れるものとして一つ、「無限の共感はエモである」、ということが浮かび上がります。

 

 

 

「無限の共感はエモ」、これは巨大概念の一種にすぎません。

ですが、「エモ」の共通項を持っているはずです。

 

切り刻みましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ、日向美ビタースイーツ(ひなビタ)の音楽はエモいのか。

ここから考えます。

ひなビタ♪公式ポータルサイト | ひなビタ♪

 

上記のリンクを見てわかる通り、ひなビタというのは、架空のガールズバンドユニット。

僕は主観的視座よりひなビタは現実に存在するバンドだと考えていますが、残念なことに血涙を流しながら客観的視座より見るとひなビタは架空の存在であるようです。

リズムゲームを中心に活動を展開している今最もエモいガールズバンドであります。

 

 

このコンテンツには他コンテンツと比べて特異な点があります。

それがこれです。

https://www.facebook.com/hinabitter/

ストーリーをフェイスブック(SNS)で展開してゆく点です。

これにより、我々はキャラクターの動向を見守る従来のストーリーコンテンツに加えてキャラクターと同じ時を過ごす共時性を手にすることができます。

 

日向美ビタースイーツとストーリー共時性というテーマの言及は多いですが、それ以上に我々が考えねばならぬことがあります。

 

ストーリー共時性により、われわれが何を手に入れるかです。

 

 

例を挙げましょう。「霜月凛バンド辞める騒動」というものがありました。

なんでこれを上げるかというと、これがリアルタイムで見た体験である点が8割、僕が霜月凛を好きだからというのが2割です。

 

www.konami.jp

 

ことの発端は日向美ビタースイーツのエレキギター、霜月凛がとある事情でバンドをやめようとし、それを残りのメンバーが必死に引き留めようとする、そういった騒動です。

 

メタな話をすると、この手の話は、本や漫画にしてしまうと一晩で読めて結末まで見ることができてしまいます。

しかし、共時性という特性に極振りしたフェイスブックという発信媒体をとるひなビタでは、この霜月凛がどうなるのか?この話はどう終わるのか?という結末が一晩では分かりません。

何か月も、何か月も少女たちと歩調を合わせて答えにたどり着くのです。

 

このとき、読者は読者としての「全能性」を失います。

物語と同じ時間軸に存在する読者は時間を超えるという特性を失います。

霜月凛の安否を気遣うものとして、時を同じくするものとして、読者はまり花たちとともに時間の経過を待ち、耐えるということをせねばならず、最終的により深い共感と共振を感じるのです。

 

そうして、そんな物語の果ての一曲が出来上がります。

www.konamistyle.jp

私たちはそれをエモいと呼ぶのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物語の果てのエモさという点では、こちらもよい例として挙げられるでしょう。

https://www.amazon.co.jp/BanG-Dream-バンドリ-中村航/dp/4048924486

 

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 この本に関しては二か月ほっといたら詳しいお話を真剣な人が書いてくれると思うので参考程度にリンクを置いておきます。彼らのツイッターは見なくていいです。

taehanazonoqu.hatenablog.com

 

 

私がこの物語で非常に強調したいものは、徹底的な一人称語りの効果、というものです。

有名な話ですが、一人称語りは、読者にキャラクターへの共感を引き起こすという効果を持ちます。

 

小説版「BanG Dream」は、女子高生の一人称語りという点において、他の追随を許さぬ精緻さと完璧さを誇り、また、ストーリー構成もこれ以上なく美しいものであります。

 

結果としてキャラクターへの理解と共感はこれ以上なく深まり、物語の果てに生まれた歌に、とんでもなく大きな価値が付与されます。

これが小説版のバンドリだと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

話を纏めましょう。

この二つの作品から、「キャラクターへの共感」と「物語のコンテクストを知る」こと、それもキャラクターしか知らないコンテクストを知ることが、そのキャラクター達の生み出すもの一つ一つをエモくするのだ、ということが導き出されます。

 

結局エモってなんでしょう。

それは、感受のアンテナを肥大化させ、共振することです。

物語の背景を知ることで、感受のアンテナは敏感になります。

歌う少女がどんな人生を送ってきたのか知ることで、その歌はより感動を引き起こします。

 

感情には様々な要素が絡みつきます。

そしてその要素は複雑に絡みあい、スイッチが入ると感情が揺れます。

それが最大まで振れたとき、振れさせられたとき、そこにエモがあるのではないのでしょうか?

 

 

 

 

 

write about my light right

あれは忘れもしない。2017年の衆議院選挙の日だった。

 

僕はそのとき、『働ければならない』という思いに駆られ、選挙バイトに応募。

自宅から60km離れた選挙開票所へと仕事のために向かっていた。

 

折りしもその日は平成史上最大と言われた台風が近畿に最接近した日。

僕はそれでも仕事に向かおうとした。大阪の交通の心臓たる梅田まで来た。

 

 

そこで、職場に向かう電車が一本も動かなくなった。

 

 

電車が止まった。

仕事場に行けない。なんてことだ。

 

自然の猛威。刻一刻と強くなる雨風。

この日、梅田の街では何本のビニール傘が折れただろうか。

何件のバイトが、何件の仕事が取りやめになっただろうか。

 

しかし、選挙バイトは止まらなかった。

選挙というのは並大抵のことでは中止にならない。

 

選挙のような社会の重大事は、台風という一地域の些末事に構って取りやめてよいものではない。

選挙のような社会の重大事は、円滑な社会運営のために何があっても遂行しなければならない。

 

選挙と、それに伴う開票作業は、中止にならない。

 

自動的に僕のバイトも中止にならない。労働に、行かなければ。

 

 

タクシー乗り場に並んだ。暗い。

でも、無数の証明が街を照らす。明るい。

そこに、容赦なく雨風が吹きつける。雨が、アスファルトを濡らす。

濡れた地面が黒々と光っていて、不気味だった。

 

 

人々は、タクシー乗り場に並ぶ。

種々の、それぞれの事情を持ってこの人たちは並んでいる。

そこに、アイロニーのように横殴りの雨風が万人に対して平等に殴りかかる。

 

タクシーが目まぐるしくやってきて、人を拾っては、どこかへ消える。

これは、運転手さんたちの労働。

 

目の前で、並んでいた人々を誘導していたおじさんが、強風に煽られて、後ろに転び、後頭部を強打した。

僕は、おじさんに大丈夫ですかと叫びながらタクシーに乗った。

おじさんは、そんな僕に構わず自分の仕事を続けた。これは、労働。

僕も、タクシーに乗って労働に向かった。

 

 

交通費が一万円消えた。

僕の身なりがひどいのを心配した親が買ってくれた革靴は、田舎のコンビニの横の水たまりに落ちたときに、だめになった。

雨に濡れ続けた。

 

これが、僕の労働だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、当然の疑問が発生する。

 

なんで、僕は働かなければならないのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は、学生である。

労働者以前に学生である。

 

通俗的な観念から見たら不道徳な学生なので、アルバイトをしている学生はかわいそうだと思ってるし、みんな奨学金で借金ニートをすれば幸せなのにと思っている。

入学直後、学業に打ち込むわけでもなく、娯楽の「ご」の字に溺れずに、『社会勉強』とか言いながらアルバイトを始めた圧倒的大多数のまともな人間が理解できなかった。

 

なのに、どうして僕は働いているのだろう。

深夜、自宅から60km離れた体育館でずっとこのことを考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

労働。

これがこの社会を回していて、僕はそれが大嫌いだ。

 

学業。

これは金がないとできないが、僕はそれが大好きだ。

 

でも、僕は、親ぐるみで貧乏だ。

 

 

 

 

 

 

 

大学に入学したとき、やりたいことしかしなかった。

ひなビタ♪のCDは買った。でも、働かなかった。

食費を削って生活していた。

楽しかった。

 

 

 

 

周囲の人間は、働き始めた。

焦燥感はあったが、働くのがめんどくさかったから、働かなかった。

正直な話、学生の癖にバイトをしている人間を見下していた。

 

 

 

凄い教授に出会った。

ツイッターによくいるエセリベラルなんかじゃない。本物の極左だと思った。

その人は言った。

「アルバイトは若者が承認欲求を満たす最適のツールだ。手軽に賃金というカタチで社会に認められて安心感を得るのだ」と。

その通りだと思った。

 

借り物の言葉で「グローバル資本主義は悪」だと叫び続けた。

貧しかったことが、誇らしかった。

刹那的な生活が、楽しかった。

 

 

 

 

 

結局梅雨明けまで働かなかった。

 

 

 

 

 

 

節を曲げた。

 

バイトをすることにした。

周囲でニートをしているのが自分だけになったから。

 

自分だけ社会からハブされているという感覚がつらかった。だから、そこにあった求人に飛びついた。

 

 

アルバイトはつらかった。

一か月だけとはいえ、苦痛だった。やりたいことが、できなかった。

 

忘れたころに、三万円が振り込まれた。

 

 

 

 

 

 

誇りをもって言うが、夏休みの労働時間はゼロだった。

でも、三万円の使い方がわからなかった。

 

情けないことに、僕は贅沢の仕方を知らなかった。

 

 

 

 

ある教授が、こんなことを言っていた。

「ランゲの言うには、現在の社会でもてはやされている思想や自由という権利は、資本家のための論理と権利であって労働者のためのものではない」

「君たち労働者は自らの自由を労働というカタチで資本家に売り、生活していくんだ」と。

その通りだと思った。

 

 

この自由も、学問をする権利も、いずれ労働という大義の前に消え去る。

これは、モラトリアムという疑似的特権の前に貰ったおこぼれだから。

 

僕はこの疑似的特権がもたらす、上流階級の特権が好きだ。

これからもしがみついていきたい。

でもなんで働いているんだろう?答えは見つからない。

わかっていることは、明日もアルバイトという事実。

 

 

 

 

 

 

これは、僕が入学してから今まで見て知ったこと。

でも、君たちがここから何かを感じ取り、考える必要はない。

だって君たちもいずれ資本主義の論理に呑まれるに決まっているから……

花園たえランカー開催100回目を記念して

窓の外は既に暗く、隣人たちは静かに眠りに就いている。

規則的に響く秒針の音。静かに、そして確実に、その瞬間は訪れる。

もう何度我々は、この一瞬を、この勝負を繰り返しただろうか。

 

 

『花園たえ』

 

 

AM0:00。たった四文字の情報が電子の海を駆け巡る。

それは、九州から、大阪から、名古屋から、横浜から、東京から……。

 

刹那。数多の小さな悲喜がタイムラインで弾けて、何事もなかったかのように、消える。

 

一体感は一瞬だけ。そうして、誰かの1日は始まり、終わりを告げるのだ。

 

 

 

 

花園たえランカー。

 

 

それは、定例行事。それは、サークル活動。それは、青春であり、些末事。

日付の変わるその瞬間、『花園たえ』とツイートし、その速さを競う。インターネットの片隅で繰り広げられるどうしようもなくしょうもなく、最高に熱い戦い。

そんな不毛で愛すべき争いに、今日もオタクたちは身を投じる。

 

 

 

いつどこで、この争いに巻き込まれたのかは覚えていない。

僕を巻き込んだものは渦だった。同じ渦に巻き込まれた人を見た。

そして、巻き込まれた先を見た。

そこは、新たなコミュニティだった。

 

 

 

 

 

 

 

タイムラインというものは、断片的な情報の切れ端の集まりでしかないものだが、うまく回ると、それは流水のごとく文脈を生み出し、瞬時のうちに流れ去る。

 

その文脈は、『エモ』を追った。

 

 

 

 

 

 

『花園たえ』

『やりきったかい?』

いつも見たやり取り

 

 

 

 

 

 

 

『エモ』は、巨大概念だった。

最初、訳も分からず言葉の刃で切り開こうとした。

切れなかった。書けなかった。

そうして、書くことを覚えた。

 

 

 

 

 

 

『はなぞのたえ』

『やりきったかい?』

今日もまた、

 

 

 

 

『花園たえ』から生み出される渦は大きく、大きくなってゆく。

巻き込まれたはずの自分は、あるとき渦中から、巻き込まれてしまった人を見た。

そんなある日、『ボンオドリ』という言葉を知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ハナゾノタエ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『やりきったかい?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怖い。

キャラクターの名前であった『花園たえ』は急速に記号化してゆく。

『花園たえ』は『ハナゾノタエ』になる。

『花園たえ』はコミュニティ統合の象徴となる。

怖い。

『”九州大学”花園たえ研究会』のはずが、構成部員がほとんど九大生ではない。

怖い。

『研究会』が乱立する。それは、あまりにも巨大になりすぎた渦が作り出したもの。

怖い。

『花園たえ』は、キャラクターとしての"名"から"記号"にスライドしてゆく。

 

九花研は、怖い────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『hanazonotae』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『やりきったかい?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"彼女たち"はバンドリの名のもとに集った。

『花園たえ』の名のもとに、私たちは、集った。

 

 

 

 

記号化された『ハナゾノタエ』。

再解釈と肉付けのプロセスが進む。

『hanazonotae』を『花園たえ』に。

 

 

主観的に『花園たえ』を見たときに、そこに空っぽな『hanazonotae』ではなく、『花園たえ』を知覚しようとする活動。

 

 

『花園たえ』というキャラクターを知る方法で。

聖書購入運動、そして、上映会

 

あるいは、『花園たえ』というキャラクターを知ろうとしない方法によっても。

花園たえランカーは参加することに意味がある、花園たえフリースタイル部門

 

 

 

九花研は巨大だ。いろんな人間を、いろんな話題を、新たに浮上する問題も、何もかもを巻き込んで、花園たえランカーは回数を重ねる。これまでも、これからも。

 

 

 

 

 

そして、今日が終わったその瞬間────

 

 

 

『花園たえ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────100回目の『やりきったかい?』を聞くだろう。