私選!うまいタバコ一選
今日は本当にいい天気です。
深夜の月は厚い暑い雲に隠れて、雨がずっと降っています。
こんな日はだれもかれもがみんな部屋にこもって、みな静かに己の生活をつつましやかに過ごしている。
だからまあ、静かです。
聞こえてくるのは、雨音のみ。
真っ暗な世界に、私の手元にある照度1500ルクスの白いLEDの明かりと、おおきな画面比4:3のモニターのライトと、それからレースのカーテンで軽く閉めただけの窓の遠くで、ぽつぽつと輝く小さな灯火たちがそれとなく存在を主張するだけ。
ほんとうに静かです。
こんな世界に響く雨音は、どことなく優しい響きをしています。
さああ…ざああ…と天の御手が地を撫でるように。心なしかリズミカルに。
やわらかなオノマトペ。
ここで、柔性の音に騙されて、透明なビニール傘を広げて外に出てみましょう。
雨粒の一つ一つが、そのぴんと張った、つややかなビニールの面に弾かれて、ばらばらばら、と硬いオノマトペを断続的に吐き出します。
ビニールよりも硬いだろう、アスファルトの地面に叩きつけられた雨はもっと静かに音を立てるのに。ちょっと不思議。
傘にくっついた雫たちが、街灯の光を受けてきらきらと光ります。
つま先が冷たく湿ってきました。
言ってしまえば、結構な雨。強い雨。
そんな日を、僕は何もせずに過ごしました。
何もしないこと。停滞。
少し前までの、何物にもなれなかった僕は、一日を「何もせずに過ごす」ことに耐えられず、何かをなさねばならないという義務感に囚われ、無為を憎んでいました。
ただ、今の何物にもなれなかった僕は、この「何もせずに過ごす」という無為が、この上なく素晴らしいことに思えて、なにも生み出せなかった今日を許しているのです。
雨水の纏わりついたように重い足。モニターの前に腰を据えるも、キーボードに添えられただけで動かない指先。
浮かばない言葉。空気の攪拌されない五畳半の部屋。
そんな中で退嬰を愛するのは現実逃避なのでしょうか?
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私はちぐはぐな人間です。
ちぐはぐな人間ですが、手元には何者かになりたいという、この今に至ってなお未だ処理できていない強烈な願いと、それから今になっては衰えきってしまった根拠のない全能感がありました。
そんな私が憧れたことは、創作でした。それも、言葉での創作。
こういう中学二年生ってノートを作りますよね、俗に「黒歴史」って呼ばれるやつ。
ばっと開けたらそこには書き手の中二男子にしか理解できないような言葉で埋め尽くされてる、端から見たらただただ呪術的な何かにしか思えないようなノート。
まあ、今から適当な中学校に侵入して二年生の教室をガサ入れしたら、多分クラスに一冊の割合で発掘されると思います。
で、そのクラスに一人の割合で存在する†能力者†の中から、学年に一人の割合で、その自分のノートに書かれた断片的な物語から一つのサーガを産み落としてやろうとする輩がいるわけです。
その一人が私です。
でもってそういう中二くんのみなさまのうち99%は、完結した物語を紡ぐことができずに、無根拠な自信を粉砕されるわけですな。(当社比)
そのうちの一人が私です。(涙)
さらにさらに、自信を無くしてしまった時点で諦めるべきなのに、「何者かになりたい」という漠然とした願いに焦がれて、またノートを作って、何か作ろうとして、失敗して、自信を失って……という非常に醜いループを大学生になっても繰り返すと私になります。
自身もなく、結果も出ないのに、自分の裡から何かしないといけないという思いに駆られ続ける。
ライフスタイルがちぐはぐです。
加えて、時間は過ぎゆきました。万人の頭上を平等に。私の頭上を残酷に。
学部3回に上がった途端、周囲は将来の進路を考えはじめ、やれインターンだのやれ就活だなどと、生活のために何かをせねばならないという強迫観念を私の外側から植え付けてきたのです。我ながらなんて言い草だよ。
ただ、私はこのなんの変哲もないモラトリアムな生活が、同じ状態を保持したままずっと繰り返すことを願っているので、どうもこの、本当はずっとこのままでいたいのに、でも生活のために何かをして、何物かにならなければならない、という状況が苦しいわけです。
何もせず、このまま、停滞の中を、退嬰の中を。
僕が書き散らしてきた黒歴史ノートの中には、その力でポンポンと世界を変えてしまうような魔法使いたちがたくさんいました。
僕は思います。
どうして自分にとって最も幸福な時間を切り取って、永遠にループさせる怠惰な魔法使いの話を書こうとしなかったのだろうと。
でまあ、ここからが私クオリティの話になるのですが、というわけで現実逃避の意味も込めてタバコに走っちゃいました。
こんな雨の日の深夜に、ベランダで吸うガラムは最高です。
真っ暗で、湿った空気の中、火を灯して紙の筒の先端に輝く赤色を灯します。
一息吸うと、甘くて、重い味。
連想されるのは、停滞と、連想。
気持ちよく、揺蕩います。
ただ、僕はどうもちぐはぐで、喫煙なんて悪徳を愉しむ一方、健全さや健やかさ、清潔さが大好きなので……
タバコを吸った後はシャワー室に駆け込んで、口を濯いだのちに全身に石鹸を塗りたくり、一通りヤニ臭さを洗い落としてしまいます。
そうしてこう言ってベットに潜り込みます。
愛すべき今日はもうおしまい、と。
花見
春です。
みなさまいかがお過ごしでしょうか?
僕は60分の教習の間にS字カーブで5回くらい脱輪したりしてました。
さてまあ、春と言えば桜です。
ちなみにですが、今年から桜のことを「エロゲ花」と呼ぶことにしました。
だってあの業界年がら年中桜満開にしてますからね。そりゃあもうあんなの国を代表する花なんかじゃありません。エロゲ・フラワーですよ。
はやく桜を「エロゲ花」と呼ぶ風潮が日本全土に広まるといいですね。僕のささやかな願いです。
それはそうとしてはやくサクラノ刻のディザーサイト更新してほしいですな。
あと最高のエロゲはCROSS † CHANNELな。これはマジ。
桜と言えばもう一つ。
僕が好んで引用する故事成語(故事成語ではないなあ)なんですけど「酒はほろ酔い花は五部咲き」というのがあります。元ネタは菜根譚です。
要は「羽目を外しすぎるな」って警句なんすけど、まあ満開の桜の下、ブルーシートを広げてどんちゃん騒ぎをする連中を尻目に見て「花は半開を看、酒は微酔に飲む…(今ググった)」ってカッコつける斜に構えムーヴができる大変優れもの。
しかも僕はこのムーヴを中学生の時から好んでいるらしいですね。死のうかな。
まあてなわけで僕はこの警句を大した意味を理解せずに乱発してるわけです。
なかなか酷いですね。
まあこういうクソムーヴを飽きもせず毎年続けるのには理由があります。
毎年桜がクソほど咲くのが悪いんです。
この季節になると、冬の間ずっと土の下や硬い木の芽の中に隠れていた、淡い色をした花々が、これでもか、これでもかと言わんばかりに毎年毎年飽きもせず咲くわけですよ。
でもって桜が花開けば毎年毎年飽きもせずに人間どもが「満開~(笑)お花見~(笑)酒~(笑)インスタ~(笑)」っつってブルーシート広げてどんちゃんやるわけです。
で、その喧噪から少し離れた場所で腕を組んだ俺が毎年毎年懲りもせずこう言うわけです。
「花は半開を看、酒は微酔に飲む…」
バカじゃねえの?????
桜から俺までみんなバカ。成長なし。やめちまえ。クソが。ゲリ。カス。ウンゲ。
漢籍引用してどや顔するヤツマジで14歳で夭折したほうがいい。
死ぬか。6年くらい長生きしすぎた。
まあ以上までが脱線です。
本線の話をしましょう。
冒頭でもお話しした通り、僕は車校に通っています。
でもってS字カーブで引っかかって2回補講を食らいましたがそんなことはどうでもいい。
僕は普段おうちでごろごろして生きる産業廃棄物の別名をほしいままにしています。
そんなゴミが車校で助手席にブレーキがついてるタイプの普通自動車に乗り、S字カーブで脱輪するためには、車校へと歩いて通学せねばなりません。
するとあら不思議。文脈に通学路の概念が浮上してきました。
おうちから車校へ通うためには、大学のキャンパス内にある山(といっても、そこまで通行に負担のあるものではありませんが、それでもなお風景は山道なのです)を一つ横断する必要があります。
その道沿いの桜が、少しずつではありますが、乳液の海にほんの少しの食紅を落として遊んだような色合いで、ほころび始めているのを発見しました。
きっと二週間後にはアーチのような桜並木になることでしょう。
そうして満開の桜は雨かなんかで花弁を全部落として、道路を薄ピンクに敷き詰めて、それから通行人や車に踏まれ、泥が付き、きちゃなくなるんだろうなあと思いました。
そんなことを考えながら歩みを進めます。
少しばかり進むと、車の通れないような脇道に逸れなければなりません。
あ、酒回ってきて書くのめんどくさくなってきた。
そこは少し整備された遊歩道。
履き古した靴を通して足裏が触れるのは、慣れたアスファルトではなく、黒ぼけた土。
道幅も狭くなって、まわりの草木との距離も近くなってきます。
(夏ぐらいになると、僕はこの自然とのあまりの近さに恐れてしまい、うっかり土の中に作られたスズメバチの巣を踏んで死んでしまうんじゃないかと思いながら、ひんやりとした黒土を踏みながら、びくびくとこの道を歩くのですが、それはまったく関係のない話です。あとこの道には尊師ールがあります)
僕は普段ならこの道を無感動に歩くのですが、今日ばかりは違いました。
目の高さにほんの数輪、桜の花がありました。
白にピンクを差した、桜の花がありました。
僕の記憶が正しければ、このへんに桜の木なんてありません。
でも、実際問題として目の前に花はあります。
あたりを見回して気づきました。
これは、普段ただの腐りかけの丸太だと思って気にも留めていなかった、桜の倒木からか細く、でも確かに天へ向かって枝が伸び、その枝の先から可憐な花が百輪ほど咲いていたんだと。
湿り気を帯び、地面と平行になった、黒く変色した幹。
それを覆い隠すように百輪ほどの白っぽい桜花が、新雪のごとく積もっていたのです。
僕はそれにほんの少しばかり敬意と、嫉妬心を抱きました。
僕は「花が咲く」ということを、その植物全体の中に蔵されたエネルギーが結晶化して世界のこちら側に現れ出ることだと考えています。
桜の木全体を人間だと、桜の花一輪一輪を、その人間が生み出したことば・絵・音楽などの芸術作品だと考えてみてください。
芸術は、人間の中に形を持たずにエネルギーのままで蔵されています。
だから、芸術家は、形にならないそれを、全生命エネルギー・全生活をかけて「芸術」という形あるものに作り上げ、世界に放出します。
桜の花が、桜の全てをかけて咲くように。
しかし、桜は咲こうと願えば咲けますが、人間が芸術という名の花を世界に析出させるためには、ある種の天分の助けを必要とします。
そのため、天分のない人間は美しく花を咲かせられないのです。
僕は、花の咲かない木です。だからこそ、この倒木に心惹かれ、そして嫉妬しました。
そしてこう考えて、車校までの道を歩み続けました。
この桜が咲けたのは、この腐りかけの幹の中に生命エネルギーが蔵されていたからなのでしょうか?
それとも、この倒木が桜の倒木だったから、桜花が咲いたのでしょうか?
そんなことを考えながらキャンパスを抜けた先の住宅街を歩いていました。
僕の前を小さな男の子が駆けているのに気づきました。
僕はつい気になって男の子の視線の先を追いました。
黄色のパンジーが、鉢植えの中に並んでいました。
男の子は鉢植えに向かって駆けていきます。
そうして、やわらかな手のひらを広げ、パーの手で黄色く、これまた柔らかく大きな花弁を通り過ぎざまに優しくなでると、そのままかけ去ってゆきました。
僕はその男の子の一挙一動に目を奪われました。
そうして、男の子の行為の意味についてずっとあれこれ考えましたが、ここに書くのは無粋なのでやめます。
ただ、これだけは言わせてください。
あれこそが紛れもなく、最も正しい人間にとっての花見であったということ、そして、もう僕には「あれ」をする資格はなく、あの男の子にしか「花見」は許されないということを。
そして僕は強くそうだと信じています。
友人がウシガエルを殺して調理した話
年号が「平成」となってより30年、この激動の時代はあと一年足らずで幕を閉じようとしている。
「古き良き」と称えられた昭和を知らず、私たちが生き、私たちの価値観や精神風土を育てたこの時代があと一年足らずで終わろうとしている。
だが、このことを特別なものとして捉える人間はいない。
「時代が終わること」が、もしかしたら生活に何らかの変調をもたらすのではないかと感じているものは少ない。
「時代が終わること」に、「時代に伴う価値観が変わること」に、恐怖する人間が今の日本にいるのだろうか──?
今は平成30年。一つの時代が終わりを告げるメモリアル・イヤー。
だから、日常生活に価値観の崩壊を予兆させる異常が存在してもいいのかもしれない──。
これは、一匹のウシガエルと、愚かな人間たちと、価値観という名のピアノに、調律が狂ったことを予感させる、今日あった実話である。
5月17日のことである。
ウシガエル狩り https://t.co/TbjNGJmgO2
— 🤗服部 || 長岡🤗 (@Mt_Pigeon) 2018年5月17日
>一狩りいこうぜ!ってことでウシガエルを捕りましょういつかの土曜の夜か日曜昼を予定しています
阪大近くの池にわんさかいるのでそこでやります捕ったウシガエルはそこでシメておみあしキャッスル(註:僕の家)で調理しますさわったあとはちゃんと手を洗いましょう準備:動きやすい服装、シメるための大きな石(なければ木にぶつけてシメる)、タモ網、釣竿(持ってる人いない?)、
これは、何事もない平日の木曜日に立てられたツイプラです。憂鬱なことに、私はこれに多くの「ツッコミ」を入れねばなりません。
まず、ウシガエルを「狩る」という表記。
私たちは平成30年に生きています。食料を手に入れようと思えばスーパーで加工された肉を買えば良いですし、最悪コンビニでおにぎりでも買えば良いでしょう。
「狩る」って何ですか。
次に公共の場である大学の池でウシガエルを狩るということ。
お前は学びの園を何だと思っているんだ。
確かに、公共施設である大学内で飲み会をしているウェイサークルはいますが、そのキャンパス内で虫取りするノリでカエルを狩ろうなど、お前…お前…。
規則上大学内の池でカエルを取って食うのはアウトではありませんが、こんなの一年ほど前に部員へのアルコールハラスメントで大炎上した某テニスサークルでもドン引くと思います。
要は発想が常識の地平上に存在しません。
最後に、「捕ったウシガエルはそこでシメておみあしキャッスル(註:僕の家)で調理します」という一文。
「おみあしキャッスル」とは、僕の家のことです。
つまり、僕が知らないうちに、僕の家でウシガエルを調理する話が成立していたのです。
あまりに理不尽。これでキレない人間がいたら会ってみたい。
抗議の結果、ウシガエルの調理は彼の家で行われることになりました。良かったね(よくない)
以下、主犯二名
最近ウシガエルがうるさいので食べちゃおうという流れ
— 🤗服部 || 長岡🤗 (@Mt_Pigeon) 2018年5月17日
(これが動機らしいです)
筋トレ→ウシガエルハンティング→ウシガエルを食べてタンパク質摂取
— 山本 (@daigakukurushii) 2018年5月17日
の流れ完璧では?
(こいつは知らん)
この二名がノリノリの実行犯でした。
さて、ここからが今回の事件の難しいところです。
今回のカエル狩猟事件は、僕が完全に被害者であるわけではなく、告白すると僕が犯した非の側面が大きい、という点が発生します。
実際問題として僕もカエル狩りについては、プランに口を挟みまくるなど金曜日時点では超ノリノリでしたし、ノウハウの収集に関しては僕によるものが大きいでしょう。
しかしながら、カエルの狩猟当日に怖気付き、実食パートに参加しなかったのも僕なのです。
要するに僕は口を出すだけ出して結局何もしていないのです。
カスだなぁ。
以上、今回の件は僕にも大きく非があります。
というか、非があったのは僕だけかもしれません。
だって、カエルを取って食うことに、法的には何の問題も発生せず、子供が自分たちの作り出した冒険譚に乗り出さないことは、それだけで罪なのだから。
5月18日の話は端的にしましょう。
・僕は英語の授業中の時間をフルに使ってウシガエルとその実食に際するノウハウを調べ上げた。
・僕と山本で網の買い出しに出かけ、網を買わずにクーラーボックスと柔軟剤だけ買って帰った(純粋に網の買い忘れ、自宅の柔軟剤が切れていたので)。
この時点では、まさか決行が19日になるとは思っていませんでした。
5・19
明日のバイト消したのでウシガエル狩りませんか
— 🤗服部 || 長岡🤗 (@Mt_Pigeon) 2018年5月19日
いいですね
— 御御足総統(おみあしすべすべ) (@HerasouCO2) 2018年5月19日
この時点ではウシガエルを取って食うんだろうなあと、かるーく考えていました。
しかし、決行直前、僕に心境の変化が訪れていました。
・・・・・・カエル食いたくねえ。
冷静になった僕は、カエルを食いたくありませんでした。
だってそうでしょう。21世紀の日本に生きていて、なんで食用ガエルをそこら辺の池から捕まえてきて、その場で絞めて調理しなきゃいけないんですか。
三時間前までエロゲをしていた人間が、今になって突然「さあカエルを食べよう」などと!
・・・・・・言えるか?
とはいえ話はトントン拍子に進み、気が付けば僕はガバガバ狩猟ムーブの犠牲者となる二人のオタクを召還して(オタクは単独行動を好まないので不利益がありそうなイベント時には他人を巻き込みがち)、カエル狩猟さんチームが待つ池に向かいました。
道中、キャンパス内で宴会をしているウェイウェイサークルを見ました。ひょっとしたらあれが幸福な人間の姿だったのかもしれません。
カエル狩りをする池に着きました。
岸のある斜面に、二日前に買ったクーラーボックスが転がっていました。
彼ら二人は、ウシガエルを求めてクーラーボックスをほったらかしにしたまま歩き回っているのでしょう。
・・・クーラーボックスくらい携行してください。
僕はこの時点で、まさかカエルを釣り上げるような事態はあるまい、と考えていました。
というかそんな現場に遭遇するための心構えは皆無だったと思います。
僕は覚えています。帰るべきじゃないかという話をしていたときに、
ぼく「今の池めっちゃ静かだしカエルとかいなさそうだし帰ってもい」
カエル「グモオー(ウシガエル特有の鳴き声が響き渡る)」
・・・逃げ道が断たれたのを。
そうこうするうちに、先ほどのウシガエルの鳴き声を聞きつけてか、狩猟オタク二名がこちらへやってきました。
彼らは、鳴き声がするほうに向かい、釣り糸を垂らします。
このとき、僕は心のどこかで「カエルなんか釣れるわけないだろう」と考えていました。
しかし、
遠目に見ていた釣り竿が大きくしなります。ざわつくオタクたち。
そうこうするうちに釣り竿が夜空に向かって掲げられ、その糸の先には緑色のフォルム、20センチはゆうにあるだろう食用ガエルこと、ウシガエルの姿がありました。
ウシガエルの特徴はその後肢。全身の筋肉のほとんどはそこにあり、そのためにかれらは大きなジャンプ力を持つ。
冗談のように釣り糸にぶら下がったウシガエルの姿は特徴的でした。
その体の半分ほどもある、太くて長い後肢をだらんと伸ばして・・・・・・
そんなウシガエルの姿を見た僕が最初に発した言葉は──
「殺せ!法に触れるぞ!!」
でした。
本当に恥ずべきことです。
この時の僕の脳裏を占めていた文章は、ウシガエルの身体的特徴や、調理方法なんかではなく、
特定外来生物に指定されたものについては以下の項目について規制されます。
飼育、栽培、保管及び運搬することが原則禁止されます。
──特定外来生物であるウシガエルを捕まえたからには、生きたまま運搬することは法的に許されない。
野外へ放つ、植える及びまくことが原則禁止されます。
(以上、環境省のページ:
https://www.env.go.jp/nature/intro/1law/regulation.htmlより抜粋)
──逃がすことが許されない。(もっとも、キャッチアンドリリースは許されるのですが、僕は気が動転していてすっかり忘れており、釣り上げたオタクは食べる気満々だったのでそんなことをしません)
法を遵守するためにはウシガエルを殺さねばなりません。
彼らに言っておく──
この時、僕の発想は、常識と法律に制限されていました。
「信号(註:法のことか?)は人間のためにあるのであって、
本当に人間の発想は何物かの支配下にはなく、完全に自由でしょうか?
実際には、法や教育や社会が作り上げてきた常識の枠内でのみ人間は自由なのではないでしょうか?
人間が信号のためにあるのではない」!
──以上、とある法学者のツイートより抜粋
人間は法に優位たり得ず、法が絶対的に人間に優位なのではないでしょうか。
僕の発想は、昨日までの「ルールは守るべき」常識と(そのためにはカエルを殺さねばならない)、学校教育に叩き込まれた命を粗末にしてはいけないという倫理観(そのためにカエルを殺せない)、という概念の延長線上にしかありえませんでした。
僕はこのとき、カエルの後肢を掴み、脳天を地面に叩きつけるか、何も見なかったことにして逃がすべきでした。
僕はそれをしませんでした。
気が付いたらカエルは脳天を階段に叩きつけられて、地面に投げつけられた濡れ雑巾のような音を立てていました。
僕がしていたことは、カエルを殺すことも逃がすこともせず、その場に突っ立っていることだけでした。
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その後、ウシガエルを調理するために自宅に戻っていくオタクたちの背中を追いかけることもせず、僕はただただその姿を見送っていました。
特定外来種の駆除と夜食の調理ができたので、彼ら的に本来の目的は果たせたと言えるでしょう。
しかしながら、僕はただただウシガエルの鳴き声が響く池を眺めながら突っ立っていることしかできませんでした。
あの、地面にウシガエルを叩きつけるアモラル。
村々でブタを屠殺していた時代にあったあのモラルが果たして良いことなのか悪いことなのかわからずに立ち尽くしていました。
僕はウシガエルを殺して食うべきなのでしょうか。
到底平成30年の問いではありません。しかし、僕はこの問いを解決しない限りいつまで経っても平成時代の地平上でしか生きていけない気がするのです。
僕はウシガエルを食うべきなのでしょうか?
僕にもウシガエルを殺して調理することが可能になる日は来るのでしょうか・・・?