生まれて初めて同世代から贈られたゲームのレビュー

 

 

  経緯です。

 ちなみにこれ。 

store.steampowered.com

 今ならなんと60円。絶対2000円くらいのゲームを買った余りの金で買ったんだろうなあって感じです。

 

 

  ともかくプレイ。一種の業者魂ですよね。

 

 

 ……。

 

 

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 ……なぜ、私はこのような心境に至ったのか。

 順を追って説明しましょう。

 

 

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 起動した瞬間、これが出ました。

 英文の説明が出た瞬間、「うるせえ俺は英語できないんじゃい!」ってキレようと思っていたのに、「ルールは察しろ」と言わんばかりのこの画面。

 うーん、肩透かし。

 

 

 ルールは察したので配列します。

 

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 おん。(黒髪セーラーにその乳はデカすぎる。生まれ直せ)

 

 絵が完成しました。おめでとう。

 ちなみにこれ五種類の差分があるっぽくて、順を追って全裸になります。

 あとナニとは言いませんが無毛無修正でした。

 画面の右上にあるメニューらしき何かをクリックしてギャラリーみたいな感じのsomethingなコーナでじっくり閲覧できたと思います。

 「俺は本当に18禁ゲームをしているのか?」と疑うほど平穏な感情のままえっちな絵を見つめましょう。

 

 でもってクリックすると次の画面に行きます。

 

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 うーん、一生やってろ。

 

 

 まとめです。

 野球拳や脱衣麻雀などの、「なにかのゲームに勝ったご褒美としてエロを提供するタイプのゲーム」に通づるものを感じました。

 1980年代の家庭用コンピュータ黎明期に、『じゃんけんのプログラミングを組み、同じ姿勢の女の子の絵を着衣・下着・全裸姿で三枚用意して、製作期間一週間で野球拳ゲームとして発売した』というエピソードを思い出しました。てかまんまこれだと思います。

 

 あと、この話は以下のリンクの本に大体全部書いてます。

 おもしろいのでぜひ読んでね。

 

エロゲー文化研究概論 増補改訂版

エロゲー文化研究概論 増補改訂版

 

 

 おわり。

 ゲームを送ってくれたはるひくんに感謝を。

 

妄言と旅行記(箕面の滝)

 後期の授業も始まり一か月ちょいが経ちました。

 皆様どうお過ごしでしょうか?

 僕は今、サザエさん症候群による若干の鬱があり、寝られないなあって感じです。

 

 てなわけで、適当に眠くなるまでブログでも書こうかなと思います。

 

 

 「この土日の過ごし方をどう評すか?」と問われたとき、僕なら「月曜の準備期間としてならまあマシ。休日としてなら最低」という結論を出します。

 

 ざっくり言うとこうです。

 

  これが土曜日。

 

  十時間強かけてやっとこさ課題が終了。この時点で日曜日の昼過ぎ。二連休の四分の三は吹き飛んでます。課題自体は性に合ったものなのですが、膨大な時間が飛ぶのは虚無いですね。

 

 

 ともあれ、この時の僕は、ずっと座りっぱなしだったこともあり、気晴らしに何かしないと自分が破裂してしまいそうになるほど鬱屈とした感情が胎の底に溜まってきていました。

 それに、折角の休みを無為に過ごした、という実感は自分にとって苦痛をもたらすものです。

 

 というわけで、電車に乗ってどこかに行こうと思いました。

 

 行き先はすぐに決まりました。 

 最寄駅から二駅先の兵庫県川西能勢口駅周辺です。

 

 川西は実際個人的に好きな街で、ちょっとした上流住宅街という基調を持ちつつも、夕方になると駅前にヤニカスのオッサンが大量に湧いて出て、おまけにザ・田舎のヤンキーがたむろって大声で性の話にふける……といった上品と下品が絶妙に混濁した芸術的な雰囲気を醸し出しているのです。

 

 というわけで「川西でバカンスだ!」とばかりに意気揚々と家を出立したのですが、僕はここで重大な事実に気づきます。

 

 

 仮に川西に行ったとして、やることは駅前のTSUTAYAでCDを漁るか、小さいアニメイトラノベを掘るかくらいです。

 今日の僕はそのどちらの気分でもありませんでした。

 

 券売機を前に、自分はなんとなく電車に乗って遠くへと行きたかったんだなあ、という願望に気づきました。

 電車に乗って違う場所へと移動できるのなら、どうやら僕は川西能勢口でも三宮でも西宮でも梅田でも、どこに行っても同じ気分に違いないのだな、と思いました。

 

 じゃあ、どこに行くのか?

 わかりません。

 

 西宮?河原町?梅田?川西?

 一つ一つの候補地を吟味しようにも、漠然と違うなあ、と思うだけで、何も結論は出ません。

 でも、遠くへ行きたいという思いは本物でした。

 

 それなら、と私は券売機で一番高い切符……ではなく生来のケチゆえに券売機で一番安い150円の切符を買って、即座に改札を抜けました。

 

 一番安い切符を買ったことで、僕の移動の候補地は二か所の、150円の切符で行ける範囲へと絞られました。

 

 やっぱり、どこへでも行けるチケットではなく、行ける場所を制限されたチケットを手にしたのが良かったのだと思います。

 自分の頭を使わずに、選択肢を狭めることができますから。

 

 

 さて、候補地は川西と箕面

 僕は、なんとなく「そういや箕面の滝って行ったことがねえや」くらいの気持ちで箕面行きのホームへと向かいました。

 電車を待つ間、離れたホームから、川西方面へ出発する電車を見送りました。

 なんとなく、箕面に行かねばならぬと思うことができました。

 

 

 

 箕面の滝を実際に見た感想ですが、あの観光地の本当の良さは滝それ自体にはなく、箕面駅を出てすぐのところから、滝に至るまでの2.8kmの道のりにあると言えるでしょう。

 清水寺の参道と、あの美しい音羽の参道を想起するといいでしょう。

 駅から出たすぐのところから、上り坂の両側に土産物屋がずっと並んでいて、その間を、実に多くの人が歩んでいきます。

 喧噪、香ばしいソーセージの焼ける匂い、目を引く土産や地ビールを愉しむ人……そんなものを尻目に、チンタラ歩いてる観光客をガンガン抜き去りながら坂道を登ります。

 

 ある程度まで行くと、土産屋が並んでいた坂道は、緑豊かな山道になります。

 紅葉の色づきは、まだ緑毛の絵筆に赤の色水を淡く差した程度、というべきでしたが、もともと薄い葉が、陽光を浴びて、やや黄色っぽく見える様は、これはこれで良いかな、と思いました。

 あちらを見れば清らかな川があり、こちらを見れば美しい木々がある。といった具合に飽きることない風景が、2.8kmも続きます。

 

 あと、特筆すべきは、途中の山道だけにはとどまらず、最終地点の滝つぼのすぐ近くまでにも多くの観光客向けのお店があったことです。

 祭りの出店のようなのはもちろんのこと、それこそ京都にありそうなお休み処から、喫茶店までありました。

 

 こんな山奥まで出張ってくる大阪の民の逞しき商魂を感じます。

 

 

  さて、滝を前にした僕は、とりあえず何か食べることにしました。

 そのときに言った「鹿バーガーください」という言葉が、この小旅行の間で発した唯一の言葉でした。

 僕はそれを心地よいことだ、と感じました。

 

 滝を前に多くの人がいました。多くの人がいましたが、自分以外の全員が他人で、彼らとは、話したこともこれから話すこともなく、名前も年齢も知らぬまま、ちょっと目に入った顔も忘れて交わることなく生きていくのだ、と当然のとこを思うと、どこか愉快な気持ちになりました。

 

 無駄に声帯を震わせることなく、また、誰かのためでもなく、ただ自分の好きなようにふるまう(例えば、ハンバーガーをそこの出店で買ってきて腹を満たすように)ことができる空間は、貴重なものです。

 

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 来た道を戻って帰る前に、僕は川岸に降りました。

 そこでは、飛び石の要領でしょうか、小さな男の子が川の中の大きな石の上に乗って遊んでいました。

 

 その近くでは、男の子の両親が、危ないから石の上から降りて戻ってくるように、と男の子に呼びかけていました。

 それでも危険な遊びを続ける男の子に向けて、ついに母親がヒステリックで不快な叫び声を上げたとき、僕はこの男の子にシンパシーを持ちました。

 

 この男の子が川に落ちたら、真っ先に飛び込んで助けてやろう、という考えが頭をよぎりました。

 

 

 

 眠くなったので執筆やめて寝ます。以上。

 

文学

 ふわふわと、ヘリウムの詰まった風船が空へ飛んで行く。

 こどもにとって大切な大切な風船。それが、小さな手から離れて大きな青空へ───

 

 

 

 趣味・嗜好の話をしましょう。

 

https://twitter.com/search?q=from%3A%40HerasouCO2%20文学&src=typd&lang=ja

 

 固執です。

 

 

 要旨としては、まあなんか文学にはこだわりがあるんだよ~ってお話です。説明が足りない部分は貴方の想像力でなんとかしましょう。

 

 

 でもってこういうお話があります。

 

www.facebook.com

 

 私は文学少女が好きです。(ちなみにこれは文学少女イデア

 まあ物心ついた時分から本を読み続けてきたオタクが文学少女キャラのことを好きになるのは当然っちゃ当然のお話ですね。

 こんなふうにかっこよく本を読むかわいい女の子に憧憬の気持ちを抱いたものです。

 

 やっぱりその、良いですよね。霜月凛。

 哲学に黒髪に黒セーラー。うーん、良い。(深夜なので語彙力がない)

 

 

 

 さて、こんな私ですが、最近新たな文学少女との出会いがありまして、それによって生じた私自身の変化とか書けたらなあと思います。

 

 「文学少女」と聞いたときに、あなたはまず何を思い浮かびますか?

 本じゃないですか?本ですね、本です。(同調圧力

 

「じゃあ彼女はどんな本を読んでいるでしょうか?」

 

 そう考えたときに僕の中で思い浮かぶジャンルは、十進分類でいうところの100番台、哲学とか思想とか、あとときどき900番台の純文学でした。霜月さんとか水上さんのイメージが強かったので。

 

 そんなイメージをもって文学と文学少女に向き合っていた僕にとって、彼女の存在は結構意外でした。

 

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 アイドルマスターミリオンライブの七尾百合子さんです。素直に好みです。

 てなわけで七尾百合子さんの本に注目しましょう。なんですかこのクソでか東洋文庫みたいな出版社のよくわからない無駄なにでかいハードカバーは。

 

 でけえ本だなあと思います。ちなみに中身はライト文芸みたいな感じらしく、僕みたいな厄介文学徒としてはちと戸惑いがありました。いやライト文芸大好きなんですけどアレばっか読んでる人間を文学少女にカウントしていいのか迷いどころさんがあります。

 

 僕のイメージの中の文学少女が読む本ってのはやっぱり岩波文庫とかそういう高尚なものであってほしかったんですよね。

 

 

 

 反省します、若気の至りがありました。

 

 

 そういった七尾百合子に対するイメージが吹き飛んだのは彼女の曲をはじめて聴いた瞬間でした。

 

それは伝説の森の奥の謎めいた世界

この表紙をめくれば

25ページでワープできるはず

目を閉じて      「地球儀にない国」より抜粋

 

 私にとってこの冒頭の歌詞は衝撃でした。そこにあったのは何度も読み返したファンタジー本を、愛するファンタジーの世界へと飛び込むためにもう一度手に取り、開く少女の姿でした。その表情は、これから巻き起こるフィクションへのわくわくと陶酔を楽しみにする人間のそれ───

 

 私は、これこそが本来の文学少女の姿だと思いました。

 最初にダレン・シャンを読んだ時の記憶、三国志を読んだ時の記憶。そのときのわくわく感。

 そういったものが今の自分の読書にあったでしょうか?

 

 それまでの自分の読書は、どこか高尚であろうとして、自分の能力を超えるような本ばかり手に取り、苦痛をこらえるように読み進めていくものでした。

 

 ですが、この曲にあった少女の姿は読書に喜びを見出している人間の「それ」でした。自分に忘れていたもの、足りなかったものを満たしてくれるような気分になったのです。

 

 本を楽しく読むこと。本をひたむきに愛すること。

 読む本のジャンルは違えど、根底にある大切なものは何も変わらないんだと気づきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここで桃園の誓いコラをブチ込んで全てを台無しにしたかったのですが、該当画像が見当たらずブッチブチにブチギレてるのでさっさとまとめに入りましょう。

 

 

 文学の話です。

 

 私は文学を、子供が持って歩くヘリウム風船のようなものだと思っています。

 少年期を思い返すとき、ふわふわと浮かぶ風船を持ち歩いている自分の姿が、泣いていようが笑っていようが風船を持った自分の姿が思い浮かぶように、人間という名の子供はその手に文学という名の風船を持っている時期があるものだと考えるのです。

 

 そして文学は、子供とともに歩むという唯一の役割を終えると、その小さな手を離れてどこかに飛び去ってゆくものなのです。

 そうしてある日、ふと手のひらから離れていった風船のことを思い返す。そんな関係性が理想なんじゃないかなと思っています。

 

国語の大学入試問題が、来年からトンデモないことになる予感(伊藤 氏貴) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

 ところが、文学のありようは変わってきています。

 子供の手から風船がとおくなっているのです。

 

 大人たちが無自覚にも風船を縛るひもを切り離して、手の届かない所へ追いやっているとき、私はその風船を愛したかもしれない子供の影を見ます。

 

 私は考えます。風船を失った子供たちが七尾百合子さんのように物語を愛して、霜月凛さんのように知を追及することができるのか、と。

 

 私は考えます。空へ消えていく風船たちのうち、どれだけの数を私はつかめるだろうか、と。

 

 

 

      レポートは明日起きたら書きます。 8/1ゴミ屋敷にて

 

 

 

ブリリン地球航海記 ~俺はダークマターを手に入れる~

身の回りで1000字程度の近況報告ブログが流行ってるので書きます。

そんなことする前に3000字のレポートを書き上げたいですね。

 

 

 

近況報告と言いましても、特筆すべきこととすれば、無責任に「七夕やりてえ」って言ってたら七月七日に””僕の部屋で””七夕スイカパーティーが開かれたことでしょうか。

 

僕の家がとうとうオタクのたまり場としての道を歩み始めました。つらい。

ちなみにあの会では一切星空を見てないですし僕に至っては一時間弱スターウォーズ批判を聞き続ける羽目になりました。つらい。

 

ep8がクソらしいですね。観たことないけど。

 

 

 

 

あとさっき夜道で研究室の先輩にエンカウントしそうになったのでオタク集団の陰湿トークを無理矢理仮想通貨の話題に切り替えて対応しました。

 

 

・・・・・・僕は夜道に大声で仮想通貨の話をする嫌な後輩になってしまいました。

 

 

 

 

 

 

じゃあ仮想通貨の話をして終わりにしましょう。

 

マイニングって知ってますか。掘るらしいです。以上。

アレ、電気代の低い中国の山奥に最新鋭のPC置いてガンガンフル稼働でマイニングしまくるサイバー・ロマンみたいなことしてたらしいんですけど、今PCの類廃棄されてるそうっすね。へー。

 

僕もマイニングしようと思って仮想通貨のアカウント取ろうとしたことがあるんですけど、アカウント作ってログインしようとした瞬間なぜかBANされて諦めました。

 

一時間弱PCがマイニングのデモプレイをする様を見続けました。

あれこそがサイバー・シシオドシだったと思います。

 

ちなみにこの話は仮想通貨バブル直前の話なので先見の明があるのかアホなのか分かりませんね。

 

 

 

ちなみにcoinhiveでした。おわり。

友人がウシガエルを殺して調理した話

 年号が「平成」となってより30年、この激動の時代はあと一年足らずで幕を閉じようとしている。

 「古き良き」と称えられた昭和を知らず、私たちが生き、私たちの価値観や精神風土を育てたこの時代があと一年足らずで終わろうとしている。

 

 だが、このことを特別なものとして捉える人間はいない。

 「時代が終わること」が、もしかしたら生活に何らかの変調をもたらすのではないかと感じているものは少ない。

 

 「時代が終わること」に、「時代に伴う価値観が変わること」に、恐怖する人間が今の日本にいるのだろうか──?

 

 

 

 今は平成30年。一つの時代が終わりを告げるメモリアル・イヤー。

 だから、日常生活に価値観の崩壊を予兆させる異常が存在してもいいのかもしれない──。

 

 

 

 

 

  これは、一匹のウシガエルと、愚かな人間たちと、価値観という名のピアノに、調律が狂ったことを予感させる、今日あった実話である。

 

 

 

 

 

 

 5月17日のことである。

 

一狩りいこうぜ!ってことでウシガエルを捕りましょう
いつかの土曜の夜か日曜昼を予定しています
阪大近くの池にわんさかいるのでそこでやります
捕ったウシガエルはそこでシメておみあしキャッスル(註:僕の家)で調理します
さわったあとはちゃんと手を洗いましょう
準備:動きやすい服装、シメるための大きな石(なければ木にぶつけてシメる)、タモ網、釣竿(持ってる人いない?)、
 
 
 
 
 
 
 
 

 これは、何事もない平日の木曜日に立てられたツイプラです。憂鬱なことに、私はこれに多くの「ツッコミ」を入れねばなりません。

 

 まず、ウシガエルを「狩る」という表記。

 私たちは平成30年に生きています。食料を手に入れようと思えばスーパーで加工された肉を買えば良いですし、最悪コンビニでおにぎりでも買えば良いでしょう。

 

 「狩る」って何ですか。

 

 

 次に公共の場である大学の池でウシガエルを狩るということ。

 お前は学びの園を何だと思っているんだ。

 

 確かに、公共施設である大学内で飲み会をしているウェイサークルはいますが、そのキャンパス内で虫取りするノリでカエルを狩ろうなど、お前…お前…。

 

 規則上大学内の池でカエルを取って食うのはアウトではありませんが、こんなの一年ほど前に部員へのアルコールハラスメントで大炎上した某テニスサークルでもドン引くと思います。

 

 

 要は発想が常識の地平上に存在しません。

 

 

 最後に、「捕ったウシガエルはそこでシメておみあしキャッスル(註:僕の家)で調理します」という一文。

 

 「おみあしキャッスル」とは、僕の家のことです。

 

 つまり、僕が知らないうちに、僕の家でウシガエルを調理する話が成立していたのです。

 

 

 あまりに理不尽。これでキレない人間がいたら会ってみたい。

 抗議の結果、ウシガエルの調理は彼の家で行われることになりました。良かったね(よくない)

 

 

 

 以下、主犯二名

 (これが動機らしいです)

 

 

 (こいつは知らん)

 

 この二名がノリノリの実行犯でした。

 

 

 

 

 

 さて、ここからが今回の事件の難しいところです。

 

 今回のカエル狩猟事件は、僕が完全に被害者であるわけではなく、告白すると僕が犯した非の側面が大きい、という点が発生します。

 

 

 実際問題として僕もカエル狩りについては、プランに口を挟みまくるなど金曜日時点では超ノリノリでしたし、ノウハウの収集に関しては僕によるものが大きいでしょう。

 

 しかしながら、カエルの狩猟当日に怖気付き、実食パートに参加しなかったのも僕なのです。

 

 要するに僕は口を出すだけ出して結局何もしていないのです。

  カスだなぁ。

 

 

 

 

 

 以上、今回の件は僕にも大きく非があります。

 というか、非があったのは僕だけかもしれません。

 

 だって、カエルを取って食うことに、法的には何の問題も発生せず、子供が自分たちの作り出した冒険譚に乗り出さないことは、それだけで罪なのだから。

 

 

 

 

 

 

 5月18日の話は端的にしましょう。

 ・僕は英語の授業中の時間をフルに使ってウシガエルとその実食に際するノウハウを調べ上げた。

 ・僕と山本で網の買い出しに出かけ、網を買わずにクーラーボックスと柔軟剤だけ買って帰った(純粋に網の買い忘れ、自宅の柔軟剤が切れていたので)。

 

この時点では、まさか決行が19日になるとは思っていませんでした。

 

 

 5・19

 

 

 

  この時点ではウシガエルを取って食うんだろうなあと、かるーく考えていました。

 

 しかし、決行直前、僕に心境の変化が訪れていました。

 

 

 

 ・・・・・・カエル食いたくねえ。

 

 

 

  冷静になった僕は、カエルを食いたくありませんでした。

 

 だってそうでしょう。21世紀の日本に生きていて、なんで食用ガエルをそこら辺の池から捕まえてきて、その場で絞めて調理しなきゃいけないんですか。

 

 三時間前までエロゲをしていた人間が、今になって突然「さあカエルを食べよう」などと!

 ・・・・・・言えるか?

 

 

 

 

 とはいえ話はトントン拍子に進み、気が付けば僕はガバガバ狩猟ムーブの犠牲者となる二人のオタクを召還して(オタクは単独行動を好まないので不利益がありそうなイベント時には他人を巻き込みがち)、カエル狩猟さんチームが待つ池に向かいました。

 

 道中、キャンパス内で宴会をしているウェイウェイサークルを見ました。ひょっとしたらあれが幸福な人間の姿だったのかもしれません。

 

  カエル狩りをする池に着きました。

 岸のある斜面に、二日前に買ったクーラーボックスが転がっていました。

 彼ら二人は、ウシガエルを求めてクーラーボックスをほったらかしにしたまま歩き回っているのでしょう。

 ・・・クーラーボックスくらい携行してください。

 

 

 僕はこの時点で、まさかカエルを釣り上げるような事態はあるまい、と考えていました。

 というかそんな現場に遭遇するための心構えは皆無だったと思います。

 

 

 僕は覚えています。帰るべきじゃないかという話をしていたときに、

 

 ぼく「今の池めっちゃ静かだしカエルとかいなさそうだし帰ってもい」

 カエル「グモオー(ウシガエル特有の鳴き声が響き渡る)」

 

・・・逃げ道が断たれたのを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうこうするうちに、先ほどのウシガエルの鳴き声を聞きつけてか、狩猟オタク二名がこちらへやってきました。

 彼らは、鳴き声がするほうに向かい、釣り糸を垂らします。

 

 

 このとき、僕は心のどこかで「カエルなんか釣れるわけないだろう」と考えていました。

 しかし、

 

 

 

 

 

 遠目に見ていた釣り竿が大きくしなります。ざわつくオタクたち。

 そうこうするうちに釣り竿が夜空に向かって掲げられ、その糸の先には緑色のフォルム、20センチはゆうにあるだろう食用ガエルこと、ウシガエルの姿がありました。

 

 

特定外来生物ウシガエルは、体長は20センチ程の日本最大のカエルである。

 

ウシガエルの特徴はその後肢。全身の筋肉のほとんどはそこにあり、そのためにかれらは大きなジャンプ力を持つ。

 

 冗談のように釣り糸にぶら下がったウシガエルの姿は特徴的でした。

 その体の半分ほどもある、太くて長い後肢をだらんと伸ばして・・・・・・

 

 そんなウシガエルの姿を見た僕が最初に発した言葉は──

 

 

「殺せ!法に触れるぞ!!」

 

 でした。

 

 

 本当に恥ずべきことです。

 この時の僕の脳裏を占めていた文章は、ウシガエルの身体的特徴や、調理方法なんかではなく、

 

 

特定外来生物に指定されたものについては以下の項目について規制されます。

飼育、栽培、保管及び運搬することが原則禁止されます。

──特定外来生物であるウシガエルを捕まえたからには、生きたまま運搬することは法的に許されない。

 

野外へ放つ、植える及びまくことが原則禁止されます。

(以上、環境省のページ:

https://www.env.go.jp/nature/intro/1law/regulation.htmlより抜粋) 

──逃がすことが許されない。(もっとも、キャッチアンドリリースは許されるのですが、僕は気が動転していてすっかり忘れており、釣り上げたオタクは食べる気満々だったのでそんなことをしません)

 

 

 法を遵守するためにはウシガエルを殺さねばなりません。

 

彼らに言っておく──

 

 この時、僕の発想は、常識と法律に制限されていました。

 

「信号(註:法のことか?)は人間のためにあるのであって、

 

 本当に人間の発想は何物かの支配下にはなく、完全に自由でしょうか?

 実際には、法や教育や社会が作り上げてきた常識の枠内でのみ人間は自由なのではないでしょうか?

 

人間が信号のためにあるのではない」!

      ──以上、とある法学者のツイートより抜粋

 

 人間は法に優位たり得ず、法が絶対的に人間に優位なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 僕の発想は、昨日までの「ルールは守るべき」常識と(そのためにはカエルを殺さねばならない)、学校教育に叩き込まれた命を粗末にしてはいけないという倫理観(そのためにカエルを殺せない)、という概念の延長線上にしかありえませんでした。

 

 

 

 僕はこのとき、カエルの後肢を掴み、脳天を地面に叩きつけるか、何も見なかったことにして逃がすべきでした。

 

 

  僕はそれをしませんでした。

 

 

 気が付いたらカエルは脳天を階段に叩きつけられて、地面に投げつけられた濡れ雑巾のような音を立てていました。

 

 

 

 僕がしていたことは、カエルを殺すことも逃がすこともせず、その場に突っ立っていることだけでした。

 

 

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 その後、ウシガエルを調理するために自宅に戻っていくオタクたちの背中を追いかけることもせず、僕はただただその姿を見送っていました。

 

 

 特定外来種の駆除と夜食の調理ができたので、彼ら的に本来の目的は果たせたと言えるでしょう。

 

 

 しかしながら、僕はただただウシガエルの鳴き声が響く池を眺めながら突っ立っていることしかできませんでした。

 

 あの、地面にウシガエルを叩きつけるアモラル。

 村々でブタを屠殺していた時代にあったあのモラルが果たして良いことなのか悪いことなのかわからずに立ち尽くしていました。

 

 僕はウシガエルを殺して食うべきなのでしょうか。

 

 到底平成30年の問いではありません。しかし、僕はこの問いを解決しない限りいつまで経っても平成時代の地平上でしか生きていけない気がするのです。

 

 

 僕はウシガエルを食うべきなのでしょうか?

 

 

 僕にもウシガエルを殺して調理することが可能になる日は来るのでしょうか・・・?

 

 

 

 

 

 

えっちげーん備忘録 「素晴らしき日々~不連続存在~」雑記②

明日は一限が休講なんで、こんな時間からえっちげーんの感想ブログが書けるよ。やったあ。

とはいえ二限があるというのもまた事実なので雑に短く書きます。

 

じゃあネタバレします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全体を通して、すば日々の一章には二層のテーマがあるように見受けられました。

 

  • 一般論的・学術論的地平から連続した地平で説明できる事象。(これは二ルート目のストーリーを組み立てたものと言えます)
  • 学術からも常識からも浮遊した位置に存在する不思議事象。(一ルート目はよくわからん日常パートを除けば大抵これ。二ルート目における全体の体感2割くらいがこれであり、それがいったい何なのか解明されぬままエンドを迎える)

 

 

 

 

じゃあ、①です。

端的に言ってこれは一章二ルート目の一連のストーリーを組み上げた、間宮卓司によるカルト宗教の組織だったと言えましょう。

これに関して言ってしまえば、ハレー彗星襲来に際し、来たる世界崩壊の現実に絶望して自殺したイギリス人が集団化しただけの話であって、宗教というほど形而上学的な側面はないと言っていいでしょう。

インターネットを利用した宗教の組織化も、2017年の人類からしてみれば唐■■洋wiki新興宗教に関する知識である程度タネは割れるチープな代物です。

 

でも、ここから興味深い事例を挙げるとすれば、それの舞台は学校だったことと、間宮卓司のドクトリンは何であったかということです。

 

 

まず、一章の舞台が学校であったこと。

間宮卓司君を簡潔に叙述してしまえば、小さな閉鎖集団の中で好き勝手したやべーやつです。

 

正直、一見そこまで社会悪には思えないでしょう。

しかしながら、一章を通して彼は膨大な人死にを引き起こす、立派な人間災害になってしまいます。

 

 

なんでこんなことになったのかと聞かれれば、それは学校という閉鎖環境が間宮卓司の活動場所であったからです。

 

これは不良大学生をやっていれば簡単に理解できることですが、学校というのは欠席一つを代償に壁一枚隔てた外に出てしまうと、そこには学校という閉鎖社会さえ内包してしまう、超巨大社会があるわけです。

 

しかし、ごく一般の高校生たちにとって、学校というものは自分の生活する最大もしくはそれに近い社会形態であり、世界の中心であるわけです。

彼らにとって世界の中心である学校内で、立て続けに『死』という名の教育が封じ込めた最強の不条理が暴走する。これを異常事態と呼ばずして何と呼びましょう。

 

長い歴史を振り返った時、過激な思想や宗教理念は往々にして非常時に流行するものです。

そう考えれば営利団体としての側面を持つ現代宗教に関わる肉親を持つ、つまり組織作成のハウツーを知る間宮卓司の宗教は──という話になります。

 

 

 

でもって次は間宮卓司の宗教ドクトリン。

ありとあらゆる宗教は教義を持ちます。例えばユダヤ教はやっぱ例示挙げんのだるいやめた。

 

でもって、間宮のそれは終末思想なわけです。世界の始まりと終わりが訪れる7月20日(この日に世界が終わることは新興宗教の教祖未満のことをしていた間宮の母経由で知っていたと思われ)を念頭に置いたものです。

 

二ルート目の最期で明かされる間宮の動機は、世界の限界を迎えたとき、自分はどんな自分でいるのか、という自己のありかたへの悩み(と解釈していいのかわからん)。

また、「世界=私(n人称)の語りうること」であるとヴィトゲったとき、m個の数だけある世界と自分の世界のかかわりは・・・という自己と他者との関係性への悩みであるとも取れます。

 

実際関係性への悩みというのはあったでしょう。

間宮はいじめられていたと明かしており、その鬱屈に満ちた関係性を強要する学校社会へのリベンジという解釈も可能です。まあいいや。

 

 

 

 

次に②です。

ゲロ吐きそうなくらい眠くて抽象化がめんどくさいので例示にとどめます。

一ルート目で高島ざくろが言っていた言葉の数々、二ルート目での這い寄る混沌(ヴィトゲるエロゲにクトゥルフとか引っ張ってくるとか正気か?)、世界少女としての水上由岐、消えた若槻家、そして一ルート目と二ルート目間の関係(一ルート目で高島ざくろが人形を屋上から落とした日時と全く同時に二ルート目で教師が同じ屋上から転落死している。あとは不明)etcといったところでしょう。

 

これに対しては語り得るものについては沈黙せざるを得ない、とヴィトゲるしかありません。続きが楽しみだなあ。

 

 

 

 

 

全体を通しての感想は、やっぱ哲学とかいうの不幸になるからやめたほうがいいなってことです。

 

スーダンの小説家、アッ・タイーブ・サーレフの代表作『北へ遷りゆく時』の中に、主人公がインテリの友人(個人)が家族に黙って隠し持っていた書斎に入り、「このように多くの書を持つ男が家庭を持つべきではなかった。彼は結婚したときにこれらの書全てを焼き捨てるべきだった(大意)」と嘆息するシーンがあります。

 

それと同じです。

幼少期、世界の果てに自分はたどり着けないことを自覚した一般人、若槻鏡さんは、自分がどこで泣いていても必ず由岐が助けに来てくれる。という小さな、一人だけの、確かな真実にたどり着きます。

 

それに対して拗らせぼっち教養持ちの間宮卓司君。

 

 

なんやお前。

 

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インド哲学科の前で何を言ってるんだタコ。

 

 

そういうことです。結局僕は滋学的な観念よりも、なんの箔付けもなく真理でもないありふれた幸せのほうが好きですね。

 

 

 

というわけで、僕はこれから知人が哲学書を持っていたら殴ってでも奪い去り、新婚の人文学者の蔵書に火を放つ職業に就き、成人したら水上由岐さんと同じ銘柄のタバコを吸いたいなあと決心するのでした。おわり。推敲0回。

えっちげーん備忘録 「素晴らしき日々~不連続存在~」雑記①

※僕がえっちげーんの内容を忘れないようにするために書いてるものなのでガンガンネタバレありますしあると思います。あるかなあ。

 

Down the Rabbit-Holeで水上由岐が目を覚ますところまで終わったから書くぞ~~。

 

 

 

 

 

 

 

 

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小学校の読書感想文なんかを書く場合だと、こういう書き出しは大抵「僕/私がこの本を読もうと思ったきっかけは~」などという定型文があるものですが、今回みたいな記事で「僕がこのえっちげーんをやろうと思ったきっかけは~」などと書き出したら目も当てられないほどキモいことになると思います。

 

というわけでここはひとつ、今までにない斬新な書き出しでえっちげ感想文を書き出してみようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕が素晴らしき日々をやろうと思ったきっかけは何となくです。

 

 

 

・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、感想文を書くにあたり冒頭にネタバレアリと書くメリットがあるとするならば、それはめんどくさいあらすじをつらつらと書かなくてよいということです。

 

 

だってそうでしょう?考えてみてください。わざわざネタバレアリのゲームレビューなんて、そのゲームの大筋を知らない人間が読むわきゃあないのです。

 

つまり、読者はストーリーを知っています。書き手は読み手の知っていることをわざわざ書く必要はありません。

 

わーい。

 

 

 

 

 

 

 

じゃあ適当に書きます。

 

・ストーリーの大筋と読み取れるテーマは何か

 

ではやりましょう。

この章のストーリーを一言で表すならば「水上由岐の夢」です。

空から降ってきた少女、高島ざくろに文字通り激突した水上由岐が目覚めるまでに見た、或いは目覚めることなく見続ける夢と呼べるでしょう。

 

その夢の中でざくろが探していた世界少女は実は由岐でした。このことから、『世界そのものである少女』は、『世界=夢』であるからこそ眠っている少女に他ならないのだなあと思いました。

世界の舞台が『夢』であることも面白いですね。ざくろの語る「内なる世界と外なる世界」。その境界は夢と現実の境目のように曖昧模糊なものではないのでしょうか。知らんけど。

 

 

 

三つのエンド。うち二つ、若槻姉妹のエンドは由岐が見続ける幸福な世界、醒めることのない素晴らしき日々を暗示させます。

しかし、ざくろのエンドを選択すると、物語は真実の方向に、幸福ではないが進むべき現実へと動き出すのです。

 

 

ルート分岐は「王様ゲーム」。一見由岐の意思の介在しない夢から目覚めるか否のいいかげんな選択に思えますが、くじは神籤。神とは言わなくとも大いなる意志による目覚めを感じざるをえません。

 

 

 

 

 

・表現等

 

全体的に絵が古かったが、えっちしーんになった途端凄く綺麗に感じられた。特にえっちしーんの音楽は素晴らしく、やはりセックスとは有史以来綿々と続いてきた美しい営みなんだなあと思いました。

 

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 これすき

 

おわり。こんな文章構成でいいんか。